港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

3.11のことは書かない

今年も3.11がやって来る。

ブログタイトルを「港町の山小屋便り」としたのは、わが町石巻が2011年の大津波で甚大な被害を受けた被災地からの定点観測的な発信をしようと考えた。こうして店やその周辺のことを書いていても、その志向がプンプン匂うのはやむを得ないことだと思う。

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2008年の門脇小学校

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2011年3月14日の門脇小学校

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2022年2月27日の門脇小学校(震災遺構)

今年も3.11がやってくる。あの年と同じ金曜日で、思うところはいろいろあるが3.11のことを直接書くのはよそうと思う。震災のことを、この11年の歩みを、知ってほしいという気持ちは誰よりも強いつもりだが、書き言葉では伝えきれないというか、何をどう書いても不全感が募るだけで、それはまるで、ザルで風呂桶の水を移しかえるような行為だ。それをも厭わないという気概がないでもないが、今はとにかく時間がなく(東京と石巻の二重生活がかくも忙しいとは!)、申し訳程度の記事しか書けない。ここで僕が駄文を書かずとも、石巻のことを伝える媒体はいくらでもあるので、そちらに全権委任したい。

今はとにかく新居のことで頭がいっぱいだ。長いアパート暮らしから脱出し、我が家と呼べる家を手に入れた喜びに満ち溢れている。たぶん、これは誰にもわからないだろう。11年間ずっと燻っていた思いがメラメラと燃え上がるような気分なのだ。

 

※震災前の日付でアップしようと下書きに保存していたら3月16日に福島沖の大地震が起きた。不完全だがひとまずこちらをアップする

山小屋を続けるインフラとしてのわが家

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石巻での寝泊まりは、2013年からずっとアパートだった。最初に借りた山下のルナシー(上記写真。左は兄貴)は家賃3万円。2年して更新しようと思ったら「被災者向けに安くしてきたが元に戻したい」と大家に言われ、それならばと安いアパートに引越した(兄貴主導)。それが今の佐藤アパート。なんと家賃1万8千円。

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いろんなところに書いてるので耳タコかもしれないが、とにかく寒い。橋の上に布団敷いて寝てるようなもの。水道はすぐ凍るしトイレも汲取式だしで、店が終わって疲れてるというのにアパートに帰りたいと思わない。店のソファーベッドも硬いし、いちおう洗濯もできるしで、とりあえずアパートに帰って寝るのだが、朝はだいたい氷点下。ここに帰ったのを後悔するばかり。今の自分にそんな部屋しかないことが、あまりに悲しい。

そんなこんなで、12月頃から一連の思索を経て、中古一戸建をなんとなく探しはじめたら、その気になって「買っちゃえー」となった。中古車でも買う感覚で、家を買ってしまった。築50年を超えているが、僕や兄貴があと30年住めればよい。たぶん底値。いい買い物ができた。

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不動産がほしいとかそういうんじゃない。安らげる場所がほしいのだ。石巻に帰った時に泊まるだけならホテルでよいが朝に追い出されるのがいやだ。自分のふるさとなのにゴロゴロ寝る場所がない(実家が流された)という状況をどう変えるべきかと考え、アパートを借りることにしたのが2013年。せいぜい2、3年と思っていたら9年も借りた。もちろん最後の2年は山小屋をやるためのベース。それまで月1回程度だったのが毎週泊まるようになり、生活の中の寝泊まりの比重が高まった。安心安全に眠れる部屋があってこその山小屋経営なのだが、佐藤アパートはその基盤たりえなかった。借りた目的が途中で変化したからアパートのせいではない。店をやるインフラとして、それ相応の「家」が必要になったのだ。

いや、山小屋は関係ないだろう。この石巻に、わが家がほしかった。土地は門脇にあるけれど家を建てるまでに覚悟が決まらない。思い描いたような町の復興とはならなかった。ならば新築は諦めて中古を買えばよいと考えたとき、ものすごく楽になった。わが家というものに、肩の力が入り過ぎていたのだろう。門脇でも南浜でもないが、住めば都、住めばわが家、だ。

これから本格的な引越し作業に入る。3.11には兄貴も帰るので一緒に荷物運び。楽しみだ。この11年間、ずっと悩まされてきた問題がこれでスッキリ解決した。次なる人生再建に着手します。

門脇でテニス!

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2020年に休止したテニスを再開した。わが家(門脇の旧家のほう)があった場所の目の前、日和山の南側にある石巻ローンテニスクラブで、だ。

2020年の夏でいったん辞めた。コロナ禍初年度でまだ店を始める話すら出ていない頃だ。緊急事態宣言下となった春から在宅勤務が多くなったのをいいことに、通っていたテニス倶楽部のレッスンをガンガン入れたら、やり過ぎのせいか膝を痛めた。夏真っ盛りの午後、レッスン中に膝の感覚がなくなり急に走れなくなった。どこか腱や靭帯でも切ったかと思って整形外科で診てもらったら膝の軟骨がボロボロで神経を痛めているとのことだった。膝に溜まった水を抜きヒアルロン酸注入の治療を続けた(ヒアルロン酸はあまり効果がないと後で聞いたのでやめた)。店の開店準備を始めてからは週末の用事をすべてキャンセルすることにして倶楽部に休会届を出した。

膝の調子がよいときにバッティングセンターのオートテニスで汗を流したり、ソフトボールチームのテニス仲間とコートを借りて遊んだりはあった。昨年末から本格Uターンに向けた準備を進めるなかで「やっちゃえ」とばかりに、ラケットを持って週末午前中に行ってみたらすぐ仲間に入れてもらえた。前日に深酒したかどうかにもよるが、土曜や日曜の午前は基本的にフリーだ。そこを使えばよい。

知り合いなど誰もいないと思ったら、倶楽部オーナーの本間さんが「孝子さんの甥っ子さんです」と紹介してくれた。孝子とは母の妹で、小さい頃から隣に住んで可愛がってくれた叔母である。震災で亡くなった(行方不明)。中2の頃に「あんださテニス教えてけっから」と、まだ開業して間もない石巻ローンテニスクラブに連れてこられ、ウッドラケットの振り方やボールの打ち方を教わった。当時はバレー部で部活が忙しくテニスをする機会はそれほどでもなかったが、学校では誰もしていない硬式テニスをやってることが楽しくて、叔母の誘いを楽しみにしていた。通っていた塾の先生もいて「ほどほどにしろよ」とからかわれたり、高校時代には倶楽部メンバーの社長さんにアルバイトをお願いしたり(スキー教室の費用捻出。真冬の魚すり身工場でのバイトは死ぬほどつらかった)。

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震災直後、がれきに囲まれ遺体捜索が進む門脇地区のど真ん中でポーンポーンとボールを打つ音が聞こえると「こんな状況でテニスなんか」と思わないでもなかったが、昔からよく知っている倶楽部なので複雑な思いだった。あれから10年。封印とか解禁とかではないが、「ここでテニスをやろう」というアイディアか自然と浮かんだ。10年かかったのかもしれない。

テニスをしていると、近くに住む知り合い(昔のご近所さん)が手をふってくれる。テニスが終わればクラブハウスで昔話に花が咲く。こんなに楽しいことはない。

どうだろう、ここで働けないだろうか? 昼はクラブハウスで管理人(時々テニス)、夜は山小屋。なんて贅沢な暮らしだろう。冗談半分にしても、そんな生活を夢想しているのは確かだ。東京で会社勤めしている場合じゃない。早くここに戻りたい。山小屋をやったおかげで、この心境になれた。早く石巻に住みたい。帰りたい。でもそのためには身辺整理が…。やれるかどうかわからないが、じっくり考えてみよう。

山小屋は立町? 小柳町?

東京なら新橋、札幌ならススキノ、仙台なら国分町、福島なら置賜町(おきたまちょう)、秋田なら川反(かわばた)…全国津々浦々に、名を馳せる飲み屋街がある。

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さて、わが町石巻は…。ここで言葉に詰まってしまう。小柳町(こやなぎちょう)か、寿町(ことぶきちょう)か、立町(たちまち)か。個人的には小柳町と言いたいが、昔の呼び方で今はお年寄りかタクシー運転手しか使わないだろう。隣の寿町のほうは商店会や通りの名前にもなっているし、スナックビルが立ち並び(津波のダメージも比較的小さかった)、飲み屋街として映(バ)エルのは寿町のほうだ。

昔は駅寄り、羽黒山階段下の小柳町が中心だったが、古い建物が多く津波で打撃を受けて更地化した。わが山小屋もこの小柳町に属する。斜向かいのスナックおり姫ママは、タクシーを呼ぶときに「小柳町の」を必ず付ける。そうすると「マルシン側ですか、六文銭側ですか」と来る。古井戸のある横丁のどちら側に車を着けますか?という意味だ。

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柳町も寿町も、正式な町名ではない。住所は「立町」である。はやしやホテルの北側、かつてはアーケードがあり多くのショップが軒を連ね、川開きのパレードが行われる石巻の目抜き通りが「立町通り」だが、今はシャッター通りとなり、買い物客はインターチェンジ近くのイオン周辺に奪われてしまった。

石巻の立町は仙台でいえば一番町であり、一本裏通りにある国分町に当たるのが、小柳町であり寿町なのだ。仙台のような大都市と比較しても仕方ないのだが(一番町も国分町も正式な町名である)。

山小屋の住所は立町だが、「どこにありますか」と訊かれたら「小柳町です」と答えたい。「では小柳町はどこですか?」と訊かれたら「寿町と羽黒町の間、寿福寺の北側一帯です」と答えよう。もう一度、小柳町石巻最大の歓楽街として認識してもらえるように、微力を尽くしたい。

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(震災前の寿町界隈)

取材お断りの店

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当ブログの話題があまりに卑近で幼稚に思われたのでnoteを始めることにした。自分のアカウントを1年前に作って放置していたので山小屋用に作り替えた。

https://note.com/yamagoya986/

いきなり2本書いた。ブログと大差ないね。2本目の記事に書いた、一橋大生が谷保にスナックを開きたいというクラウドファンディング朝日新聞で知ったこともnote開始の原動力となった。その女子の名前で検索したらnoteが出てきたからだ。新聞記事に書かれていることが、ほぼそのまま書かれていた。

https://digital.asahi.com/sp/articles/ASQ2156Z4Q10UTIL02C.html

なるほどそうか。いや、前からそんな気がしていた。新聞の街ネタはtwitterやnoteでフォローを集めているアカウントに取材していることが多い。ちょっと変わったことをやっている人間を探すには手っ取り早いツールだ。俺も店のことをグダグダ書いてればブンヤの目に留まるかもしれぬ……なんて薄っぺらいことは考えてません。だって会社にバレたらどうなるか。内緒でやってるうちは取材お断りなのだ。

1本目にも書いたが、新聞記者に話したところで先入観ストーリーに落とし込まれるだけでロクなことはない。ただ飲食店のような商売をやる以上、こうした浪花節調、カタルシス満載のストーリー構築は必要悪かもしれない。取材を受けて「そうじゃないんだがなぁ」と苦虫を噛むところをグッと堪えて「そんな感じっス!」とニコやかに応待すれば店の好感度も上がることだろう。

あーいやだ。絶対にしたくない。なぜ山小屋なんて店をやってるのか、自分でもよくわかっていないのに、初対面の記者に少し話しただけで、2000字程度の記事にまとめられるのは耐えがたい。

2012年だったか毎日新聞の取材を受けたことがある。菩提寺S寺に行ったら記者がいて、住職に「何か話してやってけろ」と紹介された。よくわからず、とりとめなくその場で自分の境遇を話した。その中に2011年8月の川開き祭りと灯籠流しのことを入れたら、少し食いついてきた。記者は、今まで聞いたことのない話が大好きなのだ。詳細を覚えていないが、東京に戻ってからもメールやりとりする中で俺がその記者に怒ったことがあった。伝わらないもどかしさ、短時間で取材を済まそうという姿勢などが耐えられなかった…。あ、この続きはnoteで書こう(笑)。

ついでにtwitterも作った。noteやブログを更新したらtweetする設定。フォローもないだろうし、記事も読まれないと思うが、やらないよりはマシ。山小屋の存在をあちこちに広める方策はとっておいたほうがよい。取材申し込み窓口なんかじゃなく、お客さんを呼ぶための。

石巻に面白いバーができたってよ」

こうしたSNSを見つけた好事家の呑み助が数人集まってくれればよい。マスコミお断り。学者先生もライターもできれば来てほしくない。ネタ探しはヨソでやってけらい。

三種の神器 その1〈スポーツ自転車〉

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11月記事「中学生 3種の神器」各論その1。

小5の時に26インチ格安ジュニアスポーツを買ってもらった。確かイノウエというマイナーメーカーだった。ヤフオクで調べたら出てきた。

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写真は22インチフラッシャー付きなのでやや違うがフロントスプロケットのオレンジ花型の飾りは見覚えがある。「なんで花なんか」とドライバーでバリバリ壊して外した。小5の頃から好みにカスタマイズする癖がついていた。

ミヤタや丸石などの有名ブランドではなかったが、トップチューブに大仰な変速機とフロントキャリアに2灯式ランプが着いていていれば立派なジュニアスポーツ。フラッシャー機能付きの真正ジュニアスポーツに乗る友人が羨ましくなかったと言えば嘘だが、変速機を駆使してクラスの友達とどこまでも行ける自転車は素晴らしい相棒だった。小6になるとスピードメーターやサイドミラーを後付けしてゴチャゴチャとなっていった。このあたりはデコトラ発祥の地石巻ならではのカスタマイズと言えようか。

中学時代もこの自転車。買ってもらってまだ2年なので中学進学時に自転車を新しくする同級生は、金持ち以外ほぼ皆無だった。後ろの荷台に折りたたみカゴをつけてバッグを入れて走ったがバランスが悪くなるので厄介だった。バッグはもちろん、当時流行ったマディソンスクエアガーデン。バレー部の試合などで他校に行くのに使ったりした。部活が忙しくて自転車はあまり乗らなかった気がする(徒歩30分だが自転車通学は禁止)。

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高校に入ると自転車通学が許された。関東の大学に入り家を出た兄貴の自転車(フレームの大きい無印スポーツ車)に乗り換えた。そして6月ボーナス期、念願の本格スポーツ車を買うことになり、親父と一緒に中村サイクルに行った。ブリヂストン店なので、当然ながらロードマンをメインに展示していた。たしかこのRM-601。ロードマンはスプロケットのデザインを更新することでモデルチェンジしていた。

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ロードマンが好きな人・乗っていた人には悪いけれど、これには絶対に乗りたくなかった。前にも書いたが、クルマで言えばマークII(家の財力を示すだけで、クルマとしての魅力に欠けている)。もっと違う自転車に乗りたい。ほかにないかと壁に吊るされている自転車を見ていると、渋いゴールドのサイクリング車が目に止まった。ダウンチューブには幾何学的なロゴ。モノックス?

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2割引で46000円と49800円のロードマンより安かった(正価57800円なのでロードマンより格上)。26インチとホイール径が一回り小さいがフレームが大きいので当時の身長(180cm)にもぴったり。ディレーラーなどのパーツはシマノDEORE、今はMTB専用モデルとなった上級パーツの初期型が着いていた。前後に泥除けフェンダー標準装備、カンチレバー式ブレーキ、フロントキャリア、砲弾型ランプ、後ろにも灯火ランプが着く(リアのダイナモから並列接続)。フレームはクロモリ鋼。ボディカラーは明るい青や緑がよかったが売られていたのはゴールド現品限り。渋い色なので売れ残っていたのかも。

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今のようにいろいろ調べて買う癖はまだなく、ほかの店に見に行くこともせず1軒目で即決(うちは中村サイクル御用達なので他店で買うことはありえない)。こんな決め方ではあったが、ロードマンよりちょっといい自転車が買えたので内心ガッツポーズをしていた。

MONOXはいわゆるスポルティーフランドナーとレーサーのいいとこ取り)に当たるのだろう。さらに格上のユーラシアやアトランティスランドナー(長距離用)となる。近所の同級生3人組が、ロードマン、ユーラシア、アトランティスでわが家の前を通って通学していた。そこに俺のモノックスが加わればブリヂストン四天王勢揃いとなるが、そのためにあいつらと一緒に通学する気にはなれなかった(笑)。

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26インチ、リムは1 3/8と平凡なホイールとタイヤ。いま流行りのレーサーとはワケが違うけれど、高校生には十分すぎるスペックで、休日は市内を走り回った。1年でテニス部を辞めて美術部に移ってからは風景スケッチに適した場所を探して稲井や須江などの里山を回った(後述するカメラを手にして)。

買って半年経った頃、走っていたら急にクランクが回らなくなり激しく前転したことがあった。DEOREの変速が壊れてチェーンがスプロケに絡まっていた。すぐに中村サイクルに診てもらったら申し訳なさげにディレーラーごと無料で交換してくれた。メーカーはSIMPLEXというダサい名前。タダだならしょうがないと思ったが、あとでフランスの銘品「サンプレクス」と知った。たまたまパーツが余っていたのをくれたんだろう。別の友人は当時この店でエディメルクスを買ったというから意外とプロユース、ヨーロッパに視野を据えた店だったのだろう。今も元気で恵み野で店をやっていると聞いており頑張ってほしい。

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86年春に一浪して東京の大学に入り、MONOXを寮まで送った(門脇のバイク屋桜井輪業に頼んだ)。隣の部屋のNも郷里花巻から同じ型(同じゴールド!)のMONOXを持ってきていて、それがきっかけで親しくなった(今もバイク仲間だ)。寮から大学までの片道30分の自転車通学を楽しんだが、哀れな末路を迎えることになった。国電中央線(この頃はまだ国鉄)の某駅前西友前に停めて鍵をかけないまま離れたら盗まれてしまった。なぜか(こんなシートの高い自転車なんかに乗る奴はいない)と考えてしまった。今で言う正常性バイアスである。なんと勿体ないことをしたか。おそらく大学4年間のうちに乗り潰して捨てる運命にあったとは言え、石巻青春時代の掉尾をともに過ごした相棒とあんな形で別れるとは…。自身の愚かさをただただ呪った。

大学時代、それ以後に乗った自転車(スポーツ)は下記。

ブリヂストンRADAC(1986〜87。大学クラスメイトから2万円で購入。これもすぐ盗まれた)

・ノーブランド700cレーサー(1987〜88。立川フロムで39800円。初めての700c仏式バルブ。これもすぐ盗難)

・GT Timberline(1988〜? マルイのローンで49800円。大学で最初にMTBに乗った男となった思い出の自転車、ハテいつまで持っていたっけ?)

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※90〜2000年代はバイクばかりでスポーツ自転車には乗らずママチャリが多かった

・GIOS MTB(2008〜2010。家を建てた時にヤフオクで購入。庭に置いてあまり乗らなかった)

・中華製ミニベロ(2010〜11。3.11の時に車に積んで石巻に行った。そのまま仙台の叔母宅に置いてきた)

・MARIN MTB Muirwoods(2012〜2018。サイクルベースあさひアウトレットで。ソフトボールを始めたのでグラウンドに通うため)

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・メーカー不明スポルティーフ(2020〜現在。別記事で書く)

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この項ではモノックスについて書きたかった。石巻がこんな町ではなかった何十年も前の話。平凡な港町を平凡な高校生が自転車で走り回っていた当時のこと。ほかに思い出すことがあれば書き足してみたい。

1/10(月祝) 店を休んで藤枝・豊橋へ

正月2週目は成人の日で三連休。店を開ける気満々でいたが、おり姫ママが「まず来ないでば」と言う。確かにうちらは二軒目三軒目の店。新成人の「わげしたぢ(若い人たち)」は、駅前チェーン店やカラオケに行くので、スナックやバーはお呼びではない。ほかの客も2週目は正月疲れもあり休みたいはずだ。俺も休みたい。休むか。休もう。休まねば。

でも休まない。行きたいところがあった。藤枝だ。旧知の日本画家北村さゆりさんが、郷里の博物館で個展(回顧展)をやっている。車でワイワイ行きたいので美術仲間2人を誘ったが、仕事で忙しいと断られた。なんでぇ、ノリが悪いなぁ。ということで最近お気に入りの各駅停車の旅。しまった、余った青春18キップを売らなきゃよかった。

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文学館特別展「藤枝出身の日本画家 北村さゆり展」/藤枝市ホームページ

私鉄の小田急線で小田原に行き、東海道線を乗り継ぎ、西焼津からコミュニティバスに乗って蓮華寺池公園へ。(中略。後ほど加筆)

さゆりさんの車で藤枝駅まで送ってもらい駅近くの居酒屋へ。腹がへっていた。東海道線は通勤用に作られ、なかで食事しにくい車両なのだ。刺身盛りに焼津名物のカツオ血合竜田揚げなど。


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さゆりさんから島田宿泊を勧められたが適当なホテルがなく浜松にした。朝食付3000円、激安。20時過ぎにチェックインして繁華街の千歳町を徘徊。看板には「パブ」「ラウンジ」が目立つ。どこも高級そうだ。和服姿で客寄せに立っている女性に話しかけてみた。

「お姉さんのところはいくらなの?」

「80分で15000円ですね。ラウンジはこんな感じです。パブはもうちょっと安いかな」

「なるほどねー。カウンターだけの店ってある?」

「それならスナックですね」

やはりスナックしかないようだ。少し歩いて「エリ」という店に入った。カウンターに一人来ていた同世代のリエさんと意気投合して閉店まで楽しんだ。


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リエさんは車で来ていて、代行運転で次の店に行くという。一緒に行くというバイトのタカちゃんに「よかったらいかが?」と言われ、3人で移動(ママのエリさんは帰った)。浜松は代行でハシゴするのか。すごいな。

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行った店は「ハノン」。郊外の広い店でボックスで7~8人が新年会をやっていた。3人でカウンターに座るもリエさんは撃沈。タカちゃんとずっとしゃべった。3時ぐらいまでいたろうか。会計で全部払おうとしたら、先に帰ったリエさんが全部払ったという。うわーなんと。タカちゃんが「こっちも楽しかったから。よかったらまた店に来て」と。まさか浜松でこんな楽しい夜になるとは。

タクシーでホテルに帰り着いたのは朝の4時前。翌日は豊橋郊外に11時まで行かなきゃならない。頑張って7時半に起きて9時発の電車に。豊橋でトヨテツ(豊橋電鉄)に乗り換え某所まで(詳しく書かないが、とてもいい時間が過ごせた)。13時にそこを出て今度はバスに乗り豊橋駅へ。豊橋のバスは運転が荒いなぁ。案内された駅近くのお寺に行き墓参り。もう少し時間があればチャオ(あんかけスパゲティ専門店)に行けたのだが14時の電車に乗らないといけない。菜飯と田楽でもよかったなー。


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17時半に湯河原着。真っ暗だ。バスに乗り奥湯河原のホテルにチェックイン。リミットの18時直前。食事は20時からというのでさらに奥のほうまで歩き、公衆浴場「まゝねの湯」へ。二・二六事件(東京と別部隊の殺傷事件)のあった伊藤屋別館「光風荘」、湯河原町立美術館の近くを散策。翌日に観に来たかったが、この時点で娘から「明日送迎を頼みたいので10時半までに帰れますか?」と言われていて、湯河原観光は別の機会になった。


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朝6時に起きて7時の食堂開店を並んで待ち、速攻食べて速攻チェックアウト。なんとか10時過ぎに帰宅できた。車を出して着付教室で娘と合流。晴れの舞台に立ち会えた。

店を休んだぶんだけ、てんこ盛りの連休。藤枝、浜松、豊橋、湯河原と充実した時間が過ごせたうえに、父親としての責務を無事果たすことができた。いつもながらのパンパンの旅程。隙間があれば何でも詰め込む悪い癖は死ぬまで治りそうにない。