港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京在住(石巻出身)オーナーYがゆるーく情報発信しています。

1/10(月祝) 店を休んで藤枝・豊橋へ

正月2週目は成人の日で三連休。店を開ける気満々でいたが、おり姫ママが「まず来ないでば」と言う。確かにうちらは二軒目三軒目の店。新成人の「わげしたぢ(若い人たち)」は、駅前チェーン店やカラオケに行くので、スナックやバーはお呼びではない。ほかの客も2週目は正月疲れもあり休みたいはずだ。俺も休みたい。休むか。休もう。休まねば。

でも休まない。行きたいところがあった。藤枝だ。旧知の日本画家北村さゆりさんが、郷里の博物館で個展(回顧展)をやっている。車でワイワイ行きたいので美術仲間2人を誘ったが、仕事で忙しいと断られた。なんでぇ、ノリが悪いなぁ。ということで最近お気に入りの各駅停車の旅。しまった、余った青春18キップを売らなきゃよかった。

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文学館特別展「藤枝出身の日本画家 北村さゆり展」/藤枝市ホームページ

私鉄の小田急線で小田原に行き、東海道線を乗り継ぎ、西焼津からコミュニティバスに乗って蓮華寺池公園へ。(中略。後ほど加筆)

さゆりさんの車で藤枝駅まで送ってもらい駅近くの居酒屋へ。腹がへっていた。東海道線は通勤用に作られ、なかで食事しにくい車両なのだ。刺身盛りに焼津名物のカツオ血合竜田揚げなど。


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さゆりさんから島田宿泊を勧められたが適当なホテルがなく浜松にした。朝食付3000円、激安。20時過ぎにチェックインして繁華街の千歳町を徘徊。看板には「パブ」「ラウンジ」が目立つ。どこも高級そうだ。和服姿で客寄せに立っている女性に話しかけてみた。

「お姉さんのところはいくらなの?」

「80分で15000円ですね。ラウンジはこんな感じです。パブはもうちょっと安いかな」

「なるほどねー。カウンターだけの店ってある?」

「それならスナックですね」

やはりスナックしかないようだ。少し歩いて「エリ」という店に入った。カウンターに一人来ていた同世代のリエさんと意気投合して閉店まで楽しんだ。


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リエさんは車で来ていて、代行運転で次の店に行くという。一緒に行くというバイトのタカちゃんに「よかったらいかが?」と言われ、3人で移動(ママのエリさんは帰った)。浜松は代行でハシゴするのか。すごいな。

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行った店は「ハノン」。郊外の広い店でボックスで7~8人が新年会をやっていた。3人でカウンターに座るもリエさんは撃沈。タカちゃんとずっとしゃべった。3時ぐらいまでいたろうか。会計で全部払おうとしたら、先に帰ったリエさんが全部払ったという。うわーなんと。タカちゃんが「こっちも楽しかったから。よかったらまた店に来て」と。まさか浜松でこんな楽しい夜になるとは。

タクシーでホテルに帰り着いたのは朝の4時前。翌日は豊橋郊外に11時まで行かなきゃならない。頑張って7時半に起きて9時発の電車に。豊橋でトヨテツ(豊橋電鉄)に乗り換え某所まで(詳しく書かないが、とてもいい時間が過ごせた)。13時にそこを出て今度はバスに乗り豊橋駅へ。豊橋のバスは運転が荒いなぁ。案内された駅近くのお寺に行き墓参り。もう少し時間があればチャオ(あんかけスパゲティ専門店)に行けたのだが14時の電車に乗らないといけない。菜飯と田楽でもよかったなー。


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17時半に湯河原着。真っ暗だ。バスに乗り奥湯河原のホテルにチェックイン。リミットの18時直前。食事は20時からというのでさらに奥のほうまで歩き、公衆浴場「まゝねの湯」へ。二・二六事件(東京と別部隊の殺傷事件)のあった伊藤屋別館「光風荘」、湯河原町立美術館の近くを散策。翌日に観に来たかったが、この時点で娘から「明日送迎を頼みたいので10時半までに帰れますか?」と言われていて、湯河原観光は別の機会になった。


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朝6時に起きて7時の食堂開店を並んで待ち、速攻食べて速攻チェックアウト。なんとか10時過ぎに帰宅できた。車を出して着付教室で娘と合流。晴れの舞台に立ち会えた。

店を休んだぶんだけ、てんこ盛りの連休。藤枝、浜松、豊橋、湯河原と充実した時間が過ごせたうえに、父親としての責務を無事果たすことができた。いつもながらのパンパンの旅程。隙間があれば何でも詰め込む悪い癖は死ぬまで治りそうにない。

ギャランGTOのバックシャン

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何を書こうとしているのかわからんがこのタイトルで書き出してみる。

昔からクルマが好きだった。物心ついた頃には身の回りにクルマのオモチャがあった。電車でも飛行機でもなく、4輪車。箱型ボディの四隅に着いたタイヤを回らせてどこへでも行ける乗り物をこよなく愛した。

なので、わが家に初めて自家用車が来た時には狂喜乱舞した。映画話を書いた記事の「サウンド・オブ・ミュージック」を観たあの小2の12月。親父のボーナスで4年落ちのカリーナ4ドア1400DXを買った。当時40万円と聞いた。ボディーカラーはメタリックゴールド、ナンバーは「宮5 み 53-06」、8トラカセットプレイヤー付、流麗な縦型リアランプ。完璧に覚えている。カリーナは、カローラとコロナをつなぐポジションとして登場、イメージキャラクターに千葉真一を使い「足のいいやつ。カリーナ」とスポーツ性を強調した。のちにセリカとコロナの兄弟車扱いとなった。

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わが家のクルマについては別記事で書くとして、ここで書きたいのは、絵を描くのが大好きだったということ。保育所にいた頃から鉛筆と紙さえあれば何時間でも描いていた。特にクルマは、街中を走るクルマからその車体や機能を覚え、ミニカーを買ってもらい、それを絵に描いていた。セダン、クーペ、バン、トラック、ダンプカー、タンクローリーコンクリートミキサー…。

描くのはだいたい横向き。タイヤは正円で描きやすいし、ボディー形状の特徴が出やすい。だが自分はクルマの全てが好きなので、クルマが最も美しい角度から見たいし描きたい。小2の冬、というか3学期の押し迫った頃だと記憶する。教室で、天から何かがフッと降りてきた。

「描ける! クルマを斜めから描けるぞ」

急にイメージが沸いた。そのクルマは三菱ギャランGTO 2000GSR。ルーフからリアウィンドウが緩くスラントし、トランクフードのエンドが上向きにピンと跳ね上がる「ダックテール」スタイル。トヨタセリカリフトバック(今でいうハッチバックGTOはトランクが独立する普通のクーペだった)と同様にアメリカ70年代マッスルカー(例えばフォードマスタング。わが家のカリーナもアメリカ車の影響を強く受けている)を真似たルックスだが、小2生にはそんな理屈はどうでもよく、カッコいいクルマとしての印象がとにかく強かった。

リアのコンビネーションランプが屈曲している造形の妙にも惹かれた。初代GTOトヨタセリカいすゞ117クーペに対抗してDOHCエンジンを搭載するMRがフラッグシップ)からセミモデルチェンジを経て、コンビネーションランプがややゴージャスになった(セリカ化したとも言える)。さらにはオーバーフェンダー化もされ(一番上の写真参照)、いわば族仕様が強まった。


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小2ながらに描きたかったのは、ダックテールとリアコンビネーションランプの造形美だったので、必然的にリアビューとなる。休み時間だったか授業中だったか、一気呵成に描いた。記憶では画面左上から右下に向かってリアを向けたフォルムだったと思う。それ以降、その向きではほとんど描かなかったが(右上から左下に向けてフロントを向けるフォルムで描いた。右利きにはそれが一番描きやすい)、天から舞い降りてきたイメージがそれだったのだろう。描ける、描ける! 俺はひょっもして天才か? きっとそう思っただろう。その絵はさすがに残っていないが、会心の出来栄えだった。

※参考図版(MR)。この時は下図のような右下向きフォルムで描いた。以後は上図の左下フォルムが主流

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クルマを斜めから描くうえで難しいのはタイヤだ。薄い円筒形のタイヤを楕円に描いて、それを覆うタイヤハウスをうまく表現できたかどうか。こちらはカッコいいクルマをカッコよく描きたいのだ。カッコよく描けなければ意味がない。そこも何とかなったと思う。立体を三次元で捉える力が身に着いていたのかもしれない。遠近法はどうだったかしらん?

クルマを三次元的に描けたうれしさから、ありとあらゆるクルマを描いた。折しも時代(1976~)はスーパーカーブーム。漫画「サーキットの狼」が大ヒットし、主人公吹雪裕矢が乗るロータス・ヨーロッパ、ライバル早瀬左近のポルシェ・カレラRS(これもダックテール)、レーサーを目指す交通機動隊員沖田のフェラーリ・ディノ246GT、隼人ピーターソンのトヨタ2000GTなど、見たことがないクルマが画面狭しと走り回るコミックの虜になり、素材には困らなかった。4年になると「2組のYはクルマの絵が巧い」と噂が広まり、休み時間には机の前に行列ができた。みんなノートを開いて一例に並んでアレ描けコレ描けと注文する。だいたい、ランボルギーニカウンタックかポルシェターボだった。フェラーリ365GTB4ベルリネッタボクサー、同365GTB/4(デイトナ)、マセラティボーラ、ランボルギーニウラッコ、デ・トマソパンテラGTS。頭の中にストックができていた。みんな喜んで教室に帰っていった。

個人的に一番好きだったのはランボルギーニミウラP400SV。60年代末の流麗なプロポーションに魅せられた(カウンタックと同じマルチェロ・ガンディーニ作)。カウンタックの先代に当たり、「サーキットの狼」では裕矢の姉ローザの恋人でF1レーサー飛鳥ミノルの愛車として登場した。

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絵の話ではないが、クルマ好きを象徴する話。3年生で書いた作文が学級通信に載った。「タクシー運転手になりたい」という内容で、おふくろが切り取ってノートに貼り付けていたのが恥ずかしかった。八木山ベニーランドでゴーカートを運転するのが楽しくて、クルマを運転する仕事としてタクシーを選んだ、町の道路を全部覚えるのは大変だが、頑張りたい――とかなんとか。今もなりたい気持ちはある。このときの体験からか、タクシー運転手という仕事に関心が強い。映画や小説、ノンフィクションをよく見たりする。見知らぬ人を乗せてドライブする職業は、なんだかミステリアスなのだ。

この時もう少し研究熱心だったら、とも思う。いかんせん観察力、デッサン力が乏しい。そもそも努力が嫌いな性質だ。例えばスケッチブックを手に実際のクルマをスケッチすればよいものを(または写真を横に並べて)、記憶を頼りにテキトーに描く怠け癖がこの頃からついていた。友達に描いていた絵も、かなりいい加減だった。もう少し真面目な性格だったら、美大ぐらいは行けたんじゃなかろうか。

小5年ぐらいになると、自分のクルマをデザインしていた。好きだったのは、リアコンビネーションランプのデザインを考えること。ブレーキ、ウインカー、バック、リフレクターをどう配置してスタイリッシュにするか、授業中に考えてはノートにびっしり描いたりしていた。将来はカーデザイナーになりたいと考えたが、親友Fの影響で子供っぽいからと公言を憚り、途中から弁護士志望になった(笑)。

高校で美術部に入ったが、クルマを描くことはなかった。部活となるとアカデミックに走ってしまう(ロックのレコードジャケットは描いたが)。クルマを美術の対象とは考えなかった。中高6年間は部活や生徒会があって、自身の趣味性をうまく醸成できなかった。

いま一度標題に戻る。正直、ギャランGTOが好きだとは思わない。当時はカッコよくても、どこか子供っぽい気がする。ほかの三菱のデザインも好きになれなかった(80年代後半のギャランセダンは素晴らしかった。バブル期に誕生したクルマは捨てがたい)。好きなクルマ(デザイン)については、そのうち改めて描いてみたい。

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1/3(月) 賑わった年末年始

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12/29(水)

前日、無事に仕事(東京の)が納まり朝に出発。今回は青春18きっぷ。9:30新宿発宇都宮線に乗り、数回乗り継いで石巻に着いたのが17時過ぎ。イオンで買い物をして開店。門中のアキラとキョウコが来てくれた。去年、同期会を開いた時の幹事。1年ぶりの打ち上げ。ほかに若めのカップル。蔵王に冬登山に来た(吹雪で断念)ついでに石巻に足を伸ばしたという。山小屋の名前に騙されたという(笑)。アキラたちも加わって談笑した。途中でメニューを見て「おくずかけって何ですか? 食べてもいいですか?」と言われて頑張って作ってみた。この正月に出そうと思っていたのでいい練習になった。

12/30(木)

いつも数名で集まっているという門小門中スタッグ(男だけの)パーティー、今年は山小屋でやろうとワラワラ集まってきた。Nと会うのは久しぶり、というかほとんど初めて話す。小中高一緒でも同じクラスになったことがない同期(常連Yもそう)となると縁がない。それでもいろいろ話せて楽しかった。メンバーの子供たちも集まってきたので貸切にした。いいね。こういうのがしたくて山小屋を始めたのもしれない。

12/31(金)

午後に店を開けてみたら開店と同時にKちゃんIちゃん親子。あら久しぶり。おみやげに手製の甘酒をいただいた。「疲れてっぺと思って」。みんなそういうのだが、疲れている自覚症状がまるでない。人は疲れるとどうなるんだ? だるいとか朝起きられないとか? 一切ないんだけどね。それでも「飲む点滴」と言われる甘酒はありがたい。Iちゃん、書道のほうで忙しそう。店を手伝ってほしいんだけど無理そうだな。

夕方、スクーターであゆみ野の叔父宅に向かったが調子がおかしい。あくせるが吹きも戻りもしない。グリップが回らないのだ。ブイーーンと高回転ながらもスピード出ず。ブレーキで止まる。騙し騙しで到着。ワイヤーが凍ったのかもしれん。車を借りて仙台落合の叔母宅へ。いつもの年越し、兄貴も浦和から到着していた。


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10時まで紅白見ながらご飯を食べて石巻へトンボ返り。0時に南浜津波復興祈念公園でカウントダウン花火が上がるのだ。三陸道は横殴りの雪、50キロ規制。なんとか23:30に間に合ったが南浜は大渋滞。同級生Kと連絡とりながら公園に入り慰霊碑の前で見ることにした。実家跡でとも考えたが、がんばろう看板に近すぎてイベントの華やぎがウザイのでやめた。写真や動画を撮りながら門小LINEに流した。特に感動もシラケもない。みんなが喜んでるところを見るのが好きなだけだ。


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しかし復興公営住宅の真ん前とは。窓の灯りは半分消えている。年寄りが多いので寝てるんだろう。西光寺の蓮の会では「寺として反対」に決めたという。市長は当初、「供養の花火」を言ったらしいが住職は「花火は疫病退散であり供養ではない。簡単に供養と言ってほしくない」と突っぱねたとのこと。120%同意する。結局は復興祈念と医療従事者への感謝に落ち着いたという。新市長の人となりを知らないが「希望の花火」なんてポピュリズムもいいところ…なんて悪口はやめとこ。


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ひどい渋滞を抜けて店に戻ったのが午前1時。そこへおり姫ママが来た。「あけましておめでとう。うちもさっき客が帰ったとこ。お腹すいたからなんか食べさせて」。ハイハイ、深大寺蕎麦で年越ししましょ。そこへbugのユースケ君も加わった。大晦日(もう元旦)のこんな時間に営業してるのは、この古井戸通りの数軒しかないのかも。一般客は来そうになく、ご近所さんと一緒に新年を迎える。今年もよろしくお願いします。

二人とも店に戻り一人きり。かまぼこを切ったり芹を湯がいたり正月の仕込み、店の掃除、表の雪かきなどをした。朝5時までいたが客はなし。雪が降っちゃったしね。それでも元旦の朝を店でのんびり迎えられるのがうれしい。去年までは一人アパートにいた。来年はもう少し賑やかであってほしい。さてどんな一年になるか。

帰ったら水道が凍結していた。窓が少し開いてたこともあるが、湯沸かし器のシャワーにツララができていた。なんじゃこの部屋は。

1/1(土祝)

今年は元旦だけが土日に吸収され、ほかの祝祭日はすべて平日で連休が多いのだとか。それだけ店にいられる日数が多くなるね。

水道が凍結して顔が洗えない。まずはふたごの湯へ。去年も元旦に水道凍結してここに来た。今年はタオルもらえず。

北上ICから石巻港ICまで高速を走り、20分ほどであゆみ野に到着。仙台組(叔父、叔母、兄貴)はすでに来ていた。お雑煮、あんこ餅、おせちをいただく。眠くなったので2階に布団を敷いて眠った。実はこの部屋を狙っている。あんなボロアパートをさっさと出てここで寝泊まりしたい。叔父叔母もそのほうが安心するんじゃなかろうか。車をもう少し使ってよいとのことで借りて店に行き19時から開けた。

誰が来たんだったかな。あ、デザイナーのS君だ。仕事を頼んでる後輩。帰省中に寄ってくれた。それに若い男子二人。もう出来上がってる。若い女の子のいる店を探して迷い込んだらしい。元旦は無理じゃない? ギターを見つけて弾き始めた。ハイボール2杯ずつ飲んで一人1500円と行ったら驚かれた。たしかに石巻では考えられないだろう。若い女の子がいなくてゴメンね。

スマホに何やら着信。おり姫ママからLINE。「ジュンちゃんが腹へったって。何か作って出前してけさい」。がってんだ。深大寺そば大盛、ペペロンチーノ、麻婆豆腐、アジフライ、梅たたきキュウリ。一人で食うのか? 一品ずつ作っては出前を持っていった。ママも一緒に食べていた。そりゃそうか。


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兄貴がアパートに来ているので一緒に飲むかと帰ったらもう寝てた。隣の部屋に布団敷いて寝たが寒くて凍えそうだった。1階はずっと空き部屋。氷のうえで寝るようなものだ。いつものソファーベッドが恋しいが今夜は仕方がない。靴下を履いて寝た。

1/2(日)

兄貴を誘い出して今日も小船越のふたごの湯へ。先にコインランドリーで洗濯をした。兄貴を生協(ぴよ吉に行きたいとのこと)で下ろして店へ。あとで寄るという。塩釜から門小門中同期のAが来てくれた。そこへKと兄貴も。医者をしているAを囲んで、ガタが来ている身体の相談。山小屋医療相談室。30分5000円で10%抜こうかな(笑)。楽しい時間。兄貴に「山小屋はどう?」と訊いたら「いいんじゃない? 落ち着けるよ」と。凡庸な褒め方だが本心だろう。

夜は高校同期バスケがやってきた。いつもこの日にOB会をしている。同期以外にも二人いてこの日も貸切。その二人は早めに帰ったので同期だけで飲んだ。わがバスケ部はエリート集団なので雰囲気になかなか馴染めないが、飲み屋の店主を決め込めば問題なし。飲み放題3000円にして大騒ぎ。楽しい夜だった。石巻の正月、楽しすぎる。

この日バスケが押し寄せる直前、東京からSさんも来ていた。行きつけの狛江スナックで仲良くなった(Sさんは県北の若柳町出身)。若い子がいる店を教えてと言われたのでルーナママに電話して2軒ほど教えてもらった。地図に書いてSさんに渡した。「あとで寄ってくださいよ。一緒におり姫に行きましょう」と誘ったら「楽しかったら来ない」と言われた。12時半まで待ったが来なかったので店を出た。

スナックは今からじゃ無理だなと銀河へ。今年もよろしくお願いします。お通しのほかに蕎麦や餅が振る舞われた。隣のお姉さんは近所のスナックママさん。ちょっとだけしゃべって「今度行ってみます」と。数字だけの名前の店、ずっと気になっていた。気さくなママさんだし行ってみよう。それにしてもあのビル、行きつけの店ばかりになってきたな。

この日はコンビニホテル泊。当日予約で3000円。エアコンで部屋をガーガー温めてぬくぬくと眠った。朝早く石巻を出る兄貴とは会えず。気をつけて帰ってくれな。

1/3(月)

6連戦最終日。まずは石高同期K。そこへ同じくM。この3人で会うことって意外となかったね。でもすごく落ち着く。二人とも次の店に行くロイター板のごとく山小屋を軽々ステップしていった(笑)。

食器を整理してたら見慣れない小皿が。おり姫のお裾分けで返してないやつかなと思い、再度洗って持って行ったら「違うけど好きな色だからもらっとく」と。店は新年会で賑わっていた。ついでにおくずかけ出前受注。残り物なのでただでいいよと持っていった。「そういえば昨日Sさんが来たよ」。え、一人? 店はどうだったとか言ってた? 「うん、ボられたって」。えー、何てこった。あとで謝らないと。

店に戻ってしばらくしたらおり姫ママからLINE。「みんなおくずかけ美味しいって。味噌味はじめてだって」。ナヌー! んなワケねーべ。ちゃんと椎茸で出汁とって醤油で味付けしたんだって。里芋が煮崩れて白濁したから白味噌と勘違い。やめてー。ショックで立ち直れない。おくずかけはそれぞれの家庭で味が違うから店で出すのは難しい。

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23:40。もう来ないだろとエプロン外そうとしたら常連Mちゃん兄弟。その直後にMのマスターとその客。カウンターが一気に埋まった。昨日銀河で会ったママの店に行きたかったが、無理だ。客は1時間ほどで帰ったが、片づけが終われば午前2時。明日も早いのでおとなしくアパートに帰った。水道から水がやっと出た。

この続きはまた。

 

長谷川きよし御大の面前で

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1997年だったろうか。社長とケンカして会社を辞めることになり、することもないので石巻に帰った頃のこと。両親が南浜町に家を建てたばかりで、壁紙の糊などの化学薬品が持病の喘息発作を誘発して、吸引器のサルタノールが欠かせなかったのを覚えている。定年退職した親父の退職金を元手に慣れ親しんだ門脇町(旧町名:後町)から数百メートルのところに家が建ち、近所とはいえ知り合いもなく、帰省する身としてはひたすら居心地の悪い(田舎言葉で「いずい」と言う)ことこの上なかった。

部屋でゴロゴロしていたら西光寺のS子から「今夜空いてる? うちに長谷川きよしが来るよ」と電話があった。へー。盲目のシャンソン歌手。和製ホセ・フェリシアーノ。私淑していた作家Hさんのカラオケに毎度つき合わされてたから「黒の舟唄」「別れのサンバ」はお手の物だ。檀家は無料だというので行くことにした。

寺の青年部が主催するコンサートは西光寺の名物となっていたが、たまたま青年部に長谷川きよしの大ファンがいて招聘に漕ぎつけたという。阿弥陀如来坐像が鎮座する本堂をステージ代わりに、ベースやピアノのバンドを従えて長谷川きよし御大のライブを堪能した。伸びやかなヴォーカルと超絶スパニッシュギターに酔いしれた。

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(西光寺本堂での法要風景)

ライブ後の打ち上げにも参加することになった。酒盛りで賑わううちに、その場に居合わせた人間が順次自己紹介、「石巻出身作家Hさんのアシスタントをやっていて長谷川さんの歌を二人でよく歌っております」などと話したと思う。あとのほうで、ライブを企画した長谷川ファンがクラシックギターを持参していて「別れのサンバ」を弾くと言う。誰か歌ってくれないかとなり、S子があろうことか「ここにいるよ」と俺を指名した。バッカ野郎、本人の前であの名曲を歌えるわけがないだろが。みんなの拍手で後に退けず、もうどうにでもなれと空のビール瓶を握ってマイク代わりにした。

♫チャッチャーチャラッチャラッチャー…軽快なリズムでギターの前奏が始まり、「なーーんにもーーおーーもわずーー なーーみだもーーながさずー」とAメロを歌い、「きっとーーわたしをーーつよくーだくとっきーもー」とBメロを歌い、さぁここからサビで盛り上がろうというところでギターがトチった。「ダメだー、ごめんなさい」と演奏中断。なんだよ、最後まで歌わせてくれよ、と思ったような思わなかったような(笑)。それでもみんなヤンヤと盛り上がっていた。

https://youtu.be/2qMzBDe66s8

終わって長谷川さんのところへ行き「みっともないことしてすみません」と謝ると、「いやいや、よかったよ。ところでHさんのアシスタントしてるって? 僕はあの人の書く文章が大好きなんだ。尊敬してる。よろしく伝えてください」と言ってくださったのがうれしかった。

幼なじみのS子に東京での暮らしぶりや仕事ぶりの片鱗を見せられたのが、ちょっとだけ誇らしく思ったような。S子の親父さん(住職)とは、少し前に旧知のHさんを囲んで3人で六本木(瀬里奈だったか?)で飲んだこともあった。理事を務める埼玉の私大の図書館にHさんの著書を寄贈したいと現金をいくらか預かっており、新刊が出ては買い、届けている報告などもした気がする。

副住職(S子の兄貴。2021年から住職)のNさんもその場にいたと思うが、当時はそれほど親しくなかったのでこの日は話した記憶がない。震災後はこの人からいろんなことを学ばせてもらった。当時の自分の羅針盤がHさんだとするなら、震災後はNさんだったと言っても過言ではない。

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宴が終わり、寺のある門脇から新しい家のある南浜まで慣れない道を一人トボトボ歩いて帰った。「長谷川きよしの前で歌っちまったよ」と今しがた起きたことを反芻したが、親父とお袋には恥ずかしくて言えなかった。それでも人生のなかで数少ないハイライトシーンがあるとするなら、この日の出来事だと今も断言できる。孫子の代まで語り伝えたいほどだ。

Hさんとは、その後も何度かカラオケをした。「長谷川きよしの前で歌っただと? なんて破廉恥な」と呆れられてしまった。たぶん羨ましかったのだろう(笑)。「中上健次の前で歌ったときは緊張したなぁ」とか言ってたっけ。文学者とカラオケについて、誰か書いていないだろうか。Hさんとのカラオケ体験について、そのうち機会があれば書いてみたい。

さて、今夜もどこかの店で歌っちゃおうかな。

年末年始イベント構想

あっという間に年末を迎えた。イベントは苦手なのだが客商売となればそうも言っていられない。12月に入った頃から「山小屋にとってのクリスマスとは?」「年越しとは?」「正月とは?」とイメージを練っていた。

クリスマスだからと、ローストチキンやケーキでもないだろう。まぁ何か適当に作るさとイブの朝に車で国道4号を北上、石巻に入ったところでスーパーにかけこみメニューを急拵え。ローストビーフとシェパーズパイとワインゼリーにした。

シェパーズパイは東京の地元バーでよく食べている。ミートソースにマッシュポテトを乗せてオーブンで焼くイギリスの家庭料理。肉料理を牛にしたのでこちらはラム肉にした。薄切り肉しか売っていなかったので細かく刻んで玉ねぎみじん切りと炒めてトマト缶をぶち込む。茹でて冷凍してあったジャガイモを解凍、牛肉と粉チーズと一緒にマッシュ。あとは二層にしてトースターでチン。簡単。


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ローストビーフは、塊肉を買ったつもりがステーキ肉だった。トレイ中央が底上げされ肉が盛り上がっていてわからなかった。脂身多くて失敗。でも味はよい。


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デザートにワインゼリーを作ったが、良かれと思って赤ワインを濃いめに作ったらドロドロに固まって失敗。25%ぐらいでほんのり作るのがよいみたい。

さて、次は大晦日だ。店をやりたいが西光寺の年越し法要の時間次第。やれるなら蕎麦を出したい。ダイニング銀河でも年越し蕎麦は恒例になっており、特に珍しいことはないが、山小屋は深大寺蕎麦で勝負する。東京のわが家は深大寺の目と鼻の先にあり、親戚へのお歳暮は門前そばの生蕎麦と決めている。店用に多めに買ってあるのでスタンバイOK。客が来ればの話だが。

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正月もあれこれ考えたが、今さら雑煮でもないだろう。今年、うまく行かなかった「おくずかけ」を出したい。あとはまた深大寺蕎麦。正月らしいのか、らしくないのかわからんが。ホンコンやきそばも悪くないぞ。目玉焼きとマルシンハンバーグをトッピングで。とまぁ、想像が頭の中を駆け巡る。

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個人的に考えるのは、石巻の実家で正月をじっと過ごしても退屈だろう、ってこと。俺がそうだった。飲みに出かけたいが、親や家族の手前、一人で飲みになど行けず、つまらないテレビを一瞬に眺めるしかないのが、石巻の正月だろう。だから正月は期待している。帰省した同級生も、地元の同級生も、みんな出てこい。山小屋で朝まで話そうぜ。

12/17(金) 力を尽くさずして挫けることを拒否する

年末なのに店を休んだ。とてもつらい理由。詳しく書けないが何か書かないとやってられん。

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この言葉を30年ぶりに思い出した。大学の学生寮にいた頃に教わった、1969年東大闘争の全共闘スローガン。

 連帯を求めて孤立を恐れず。

知った時はこれだけだったが、あとで後半があることを知った。冒頭だけでは意味が通らない。文の帰結がチグハグなのだ。連帯を求めるのは孤立を恐れるからなのでは? なんらかのアイロニーがあるのだろうが、60年代の激越な学生運動のメンタリティーから生まれた言葉を、平成令和の平和ボケ感覚で推し量るのはナンセンスだ。そこを無理クリ解釈するならば、ここでいう孤立を恐れずとはノンポリどもを銃後に追いやって有志の者のみ前線に出て行け、ということだろうか。そして連帯を組んでさらに前線へ進め、ということととりあえず解釈している。

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寮にいた頃は意味すら理解しようとしなかった。立て看にゲバ文字でこう書けば格好がついた。70年代安保の猿真似でしかなかった。自分はアカだと言い張るためのスローガン。

そして後半部。これは実にわかりやすい。

 力及ばずして倒れることを辞さないが、

 力尽くさずして挫(くじ)けることを拒否する。

いうならば玉砕主義。機動隊に殴られ蹴られ両腕を後ろ手に縛られ護送車に放り込まれる美学ーーなんて言ったら諸兄氏に怒られるが、バブル前夜のうわついた時代にアカごっこをやっていた俺らの理解などその程度。寮生大会では日帝打倒、当局粉砕、闘争勝利など威勢のよいゴタクを並べ立てるけれど、翌日はサークルやバイトに埋没していた。

それでも本当の「闘争」をしていた先輩もいた。といっても三里塚や山谷でデモ隊に参加するとかじゃない。うちの場合は、地域の障がい者の自立支援活動だ。大学に行かず介護(護の字はゴンベンにクサカンムリにカタカナのゴだった)に行ったり、施設のバザーを手伝ったり。俺も何度か障がい者介護に行ったがあれはキツかった。シモの処理とかね。本気でやるのは相当の覚悟が要る。障がい者支援をしたくて上京したわけではないので、義務的にボランティアシフトに参加し、進級すれば後輩に任せていた。自分のなかでそこまで介護運動にリアリティーを持てなかった。

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何をどう書けばよいかわからないが、そんな寮にいた、という話。委員会や当番など面倒臭いことも多かったが総じて楽しかった。仲間もできた。卒業(卒寮)して30年経っても毎年のように集まっている。みんな偉くなったがこの飲み会だけは昔のまま。先輩後輩のタテ社会がむしろ心地よい。50歳半ばで下っ端として焼酎水割りをひたすら作る飲み会がほかにあるか。

これもまた「連帯」なのだ。それぞれの持ち場で最善を尽くし、その自負を持ち寄って盃を交わし互いに労う。甘ったるいノスタルジーかもしれないが、寮仲間と会う以上は、ある種のラディカリズムへの帰属意識が必須となる。歳をとるとともにマイルド(摩滅)にはなったが、昔はあーだったこーだったと愉快に話すには、今の怠惰な自分を棚上げするのは避けたいところ。俺はこうして頑張っている、肩を組んで屋上で寮歌を歌ったあの頃のように…。立身出世などどうでもよく、あの寮に生きた者として、自ら恥じるところのない状況で集まりたい。

このコロナ禍で、一部寮友にそれが不可能になっている実情をまったく知らなかった。会社を解雇され、再就職もままならず、既往症を抱え、ローンに苦しみ、友人との連絡も途絶え…。一番仲のよかった奴が、だ。俺はといえば、会社は未曾有の好景気(巣ごもり需要)。プライベートでは山小屋の準備や運営にかかり切り、リア充を満喫して周囲が見えなくなっていた。仲間のことを気遣うことなく、元気にやってるものと勝手に考えていた。いや、それすら思い至らなかった。自分のことしか見ていなかった。それが悔しい。恥ずかしい。

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寮友の急死を経て、こんなアパシー(無関心)ではいけないと、先輩後輩に片っ端から電話してLINEグループを作った。孤立し挫折する友を二度と出してはいけない。既読がつけば安否確認にもなる。せめてそういう連帯=スクラムを組んでいたい。死んだ寮友への、せめてもの供養(はなむけ)としたい。

12/10(金) 悲嘆克服の道を一人歩む

9日夜に福島に泊まった。3年ぶりの置賜スナックH。コロナ禍で来店自粛を求められていて、この夏にやっと明けたが、店で忙しくなかなか寄れなかった。コロナ前はずっとここでいろいろと相談していたので、年内に一度寄ってまゆみママにあれこれ報告したかった。

前日にLINEを送ったら、本当は休みだけどと開けてくれた。チェックインを済ませ21時に訪問。当然ながら俺一人。3年前に入れた三岳のボトルが置いてあるカウンターに座り、この2年間のことをコンコンと話す。主に山小屋のこと。どこから話してよいかわからず手当たり次第に。ぎこちないトークになったが、全部受け止めてくれるので話しやすい。やはりこの店はいい。うまく言えないが、いい。バイトのK子さんはもう来てないという。仙台に帰ったのだろうか。


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途中でNHKのSONGSを観た。ママが好きなMISHAが出るという。航空自衛隊東松島基地で唄った歌を一緒に聴いた。なんだか不思議な夜だった。久々にママとデュエットするかなと思ったけれど、カラオケをする雰囲気でもなく、閉店までずっとしゃべった。それでよかった。また来たいが、次はいつになるだろう。

翌日は伊達を通って宮城入り。梁川の伊達市立美術館に寄ったら、地元出身の彫刻家・太田良平のひどいこと。端正な女性ばかりで精神性のカケラもない。企画展は絵本作家のいわむらかずおの世界。地元小学生の校外学習で賑わっていた。こちらも縁がない。

丸森に抜ける阿武隈川沿いの県道を走っている時、ラジオがYBC山形放送に切り替わった。テレフォン人生相談室。子どもではなく大人のなので、かなりシリアスな内容。女性の相談で、20歳の娘に暴力をたびたびふるってしまい家を出て行った、どうすればよいかという相談。ガーガーとノイズがひどく、誰が相談を受けているのかわからなかったが、あとで調べたら加藤諦三社会学者)だった。50年以上やってるらしい。

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一部、隣の弁護士のアドバイスを受けながらのカウンセリングだったが、面白いことを言っていた。女性が娘に暴力をふるうのはかつて親から受けたDVが遠因しているという診断で、彼女にこう説いていた。

「あなたね、お父さんから受けた暴力とかひどいことのありったけをノートに書きなさい。ちょっとじゃダメ。ぜんぶ事細かにね。もう一字も書けないってくらいに書いたらね、そのノートを燃やすなり、川に流すなりしなさい。そうやって過去の自分とサヨナラするの。そうしたら、娘さんに対する態度は絶対に治ります」

よくあるカウンセリングだろうけど、そうかもしれないなと肚にストンと落ちた。これは儀式なのだ。心理学的、専門的に何というのかわからないが、儀式を通過することで過去のルサンチマンやトラウマ、グリーフ(深い悲しみ)と決別し得るというのはあるだろうし、実際に俺がそうだった。あれは意識的にではなかったが、あの年の夏祭りの日に、ひとり北上川で「儀式」をおこない、肉親の死を受け入れることができたんだろうなと、ラジオを聴いて得心がいった。

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誰もが同じように、儀式を通じて不幸を克服できるわけではないけれど、乗り越えられずとも「受け入れる」ところへはどうにか近づきたい。悲しみを過去に追いやるためのさまざまな儀式が、あの日以降、連綿と続いていたと思う。葬式、墓の再建、手作りの慰霊碑、自宅跡での合掌、西光寺での念仏・回向、町の復興見届けなどなど。もちろんどれもが手探りで時間がかかることだし、仕事や家事や趣味などの日々の営みのなかで、悲嘆で大きく空いた穴を少しずつ埋めてゆくことしかできない。それでも何がしかのセレモニーを意図的に挿し込むことで、「これで一区切りついたな」と思い込むことは、前を向いて一歩を踏み出す力になるだろう。

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そんなことを考えているうちに松島近くまで来た。まだ時間があるので、湯の原温泉に寄った。鉱泉を沸かしている古湯で冷えた体を温めて石巻に向かった。19時には店を開けられそうだ。石巻で山小屋をやることもまた、俺にとっては一里塚なのかもしれない。