港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京在住(石巻出身)オーナーYがゆるーく情報発信しています。

アナログレコードのこと〜平成篇〜

【9/16承前】大学3年の冬、昭和から平成に元号が変わった。たいして勉強もせず、ゼミやサークル活動に明け暮れた。週1枚ペースで買い続けたレコードは200枚ほどになっただろうか。

この頃バイブル(レコード参考文献)にしていたのは「The Illustrated Rock Handbook」という洋書だった。大学1年のときに池袋西口芳林堂書店洋書コーナーで買い、穴が開くほど読んだ。

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ミュージシャンやグループの名前を記憶に叩き込み、中古レコード店で見つけた未知のアーティストをそれと照らし合わせて購入するというのが当時の購入スタイル。よって200枚のコレクションは体系的になりようもなく、重箱の隅にある米粒の寄せ集めだったが、自分にとってそれはロックという大きな氷山の一角であり、その遥か下方に巨大なロック音楽が埋もれているイメージだった。ポピュラーで手に入りやすい音源は買わずにFMで聴けばよく、ここで買わねば一生聴けないであろう音源(そんなことはないのだが)ばかり買っていた。この本はそういう志向にとてもマッチしていた。グループのメンバー変遷を家系図的にまとめたファミリーツリーも楽しかった。

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4年の5月頃、学内を歩いているとゼミの先輩(院生)に声をかけられた。

「昨日が卒論のテーマ提出期限だったけどお前の出ていなかったぞ」

やっちまった。これで卒業できなくなった。卒論を書かないと卒業できないような単位の取り方をしていた。そうしなければ卒論から逃げるだろうと自分を戒めるためからだった(卒論を出さずとも卒業できる学科にいたので)。まさに「自らの首を絞めた」わけだ。

これで就職活動が遠のいた。親に何と言おう? 仕送りも止めないと。何より今の生活を改めなければ。まずは2年進級時に退寮した寮に戻ることにした。前から戻りたかったが同室だった先輩に「出戻りは好かん」と言われていた。70年安保時代から続く古い価値観の寮だった。その先輩もいなくなり(中退)、最上級生だったので戻りやすかった(もちろん留年を繰り返している先輩もウジャウジャいた)。臨時の寮生大会を開いてもらい「恥ずかしながら帰ってまいりました」と頭を下げた。

その後は生活費を切り詰め仕送りも止めた。塾講師や家庭教師で糊口をしのぎ、寮では借りを返すべく各種委員会に入って新入生並みに働いた。ちょうど食堂のオヤジさんが定年退職になり職員補充しないと決めた当局に食堂存続を求める交渉が激化するなか、自主入寮選考(寮生が新入寮生を選考する)までもが争点化し、学内デモやビラ撒き、教室討論会を繰り返した。寮の会議は毎晩のように行われ、寝ぼけマナコで大学に通い、1年生と席を並べて一般教養を受ける毎日で、レコードどころでなくなった。当時の多忙ぶりを示す忘れられない一日がある。

6時半 起床

7時半 大学正門集合、ビラ撒き

8時半〜 1・2限出席

12時 ゼミレポーター会議出席

13時 3限出席

15時 大東流合気柔術稽古(小平の佐川道場)

18時 塾講師バイト(新所沢)

21時 帰寮。風呂掃除

22時半 寮の会議出席

25時 レポート作成

27時 就寝(マージャンだったか?)

寮運動とバイトで忙しかったが、卒業したい一心で単位取得と就職活動はできる限りやった。単位数でいうと、2年修了時に進級ギリギリの62単位で、3〜4年でおそらく30単位、5年生の1年間で50単位は取っただろうか。お尻に火がつかないとやれない性格なのだ。同時に寮運動に明け暮れる姿を見て、周囲からはもう1年留年確実と見られていたらしい。卒論テーマも今度はちゃんと提出した。「柴田翔研究」にした。

6月頃に就職活動が始まった。出版や新聞など文字メディアに進みたくて東京に来たはずが、音楽産業ばかりを受けた。やはりバブルの影響だろう。「好きなことを仕事にできる」と勘違いしていた。FMとレコードに世話になっていたので、その方面ばかりを受けた。

FM東京(前年にTFMにCI変更したが正社名は今も株式会社エフエム東京

CBSソニー(現ソニーミュージックエンターテイメント)

・ポリドール(現ユニバーサルミュージック

ワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック

東芝EMI(現ユニバーサル傘下)

・BMGビクター(現ソニー傘下)

音楽之友社

シンコーミュージック

レコード会社は洋楽に絞り、テイチクやキングなど邦楽系・演歌系は受けなかった。開局したばかりのJ-Waveも一瞬考えたが、BGMに流すにはよいけれどエアチェック向きの局ではなかった。上記はすべて朝日新聞の募集広告。当時はそれしか情報源がなかった。5月頃から日曜の朝刊に新卒対象の社員募集記事が見開きにびっしり載る。これはと思うものを切り抜き、履歴書やエントリーシートを送った。

FM東京の筆記試験は池袋サンシャインの大会議室、CBSソニーは市ヶ谷アルカディアの大ホールなど、一度に数百人が筆記に臨んだ。隣に国学院の応援団と思われる学ランに下駄ばきの蛮カラ学生が座っていたり、受けたあとでみんなでお茶しに行って、どこを受けた、どこがどうだった、と情報交換したりした。

書類選考や筆記試験で落とされることはなく、ほとんどの会社で二次面接に進めたが、うまくいかない場面もあった。市ヶ谷(百恵ビル)のCBSは、二次面接の電話連絡を受けた寮の後輩の伝言ミスで行けなかった(電話が来ていたのを後で知った)。神保町のシンコーミュージックはサークル(大東流合気柔術)の夏合宿で志賀高原に行き、打ち上げ後に夜行列車で東京に戻るはずが酔っ払って寝てしまい完全にすっぽかした。あの時は連絡もせずごめんなさい(それくらい売り手市場で学生優位だった)。

溜池の東芝EMIは途中から経理の面接に変わったが、辞退したか落ちたか忘れた。「これだけロックに詳しい人間が経理職なんて」と思ったのは確かだ。われながら傲岸だったと思う。神楽坂の音友は筆記と面接が同日で、作文テーマが「BGM」だったのは覚えているが面接は忘れた。編集者も芸大卒ばかりで社風に合わない気がした(酸っぱい葡萄)。

FM東京半蔵門)、ワーパイ(青山)、BMG(渋谷宮益坂)は最終面接で落ちた。ワーパイの社長に「あなたは話し上手か聞き上手か」と訊かれて困った。どう答えればよかったのかいまだにわからない(笑)。BMGの社長に「最近買ったCD(レコード)は何か」と訊かれ、得意げに「OsibisaとSally Oldfieldです」と答えたらドン引きされた。B'zやB.B.クイーンズを抱えるレーベルにプログレ好きは要らなかったのかも。もっと工夫・演出すべきだった。

第一志望のFM東京の最終面接をまったく覚えていない。カリスマ社長の後藤亘さんがいたはずだが何を訊かれたんだったか。待合室で総務課長Nさんと世間話をしたことは覚えている(のちに大変お世話になった)。

どこの面接でも留年の理由を散々訊かれた。こちらは本当のこと(卒論テーマ提出ミス)を言ってるのにどうしても嘘に聞こえてイヤだった。どっちにしろだらしないのは確かだ。最終選考で迷ったら留年した学生を落とすのは当然だ。

面接の数日後、FM東京のN課長から電話があり「関連会社を受けてみないか」とのことだった。「ミュージックバード」という会社でCS(通信衛星)を使った音楽専門デジタルラジオという。エアチェック好きの身としてがぜん興味を持った。さらに開局スタッフになれるのも魅力的だったので面接に向かった。作文など筆記はFMのが流用された。

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面接会場はFMセンタービルに隣接するフェルテ麹町ビル(写真左側)。総務部長のTさん(FM東京から出向。元アナウンサー)、編成部長のTさん(FM東京。クラシック専門)、営業部長のNさん(博報堂)、技術部長のIさん(NEC)がいた。志望動機を尋ねられても「受けろと言われた」とも言えず、そこはなんとか形にした。逆質問を許されたときに社名の由来※を尋ねたら、Iさんが「僕らも来たばかりでわからないんだ」と笑った。実際、株主から出向者を集めた寄り合い所帯で、次年度に新卒を5人も採るという発想がバブルそのものだったわけだが、学生の分際でそこまで感じとることは難しかった。

※当時は通信衛星を、羽根を広げた形から鳥に喩える呼び方があった(三菱商事系のスーパーバードなど)。ミュージックバード伊藤忠三井物産系の通信衛星JC-SATを使っていたので「バード」は実は不適当だ

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ほかにポリドール(池尻大橋)だけが最終面接に進んでいた。最後は面接というより入社式意志確認で、人事部長と総務部長に面会した。人事部長が、卒論に選んだ柴田翔を愛読しているとわかり二人で盛り上がっている横で、総務部長がキョトンとしていた。

結果、両社とも内定を勝ち取ったがさすがに迷った。新しいラジオ放送局立ち上げか、伝統ある外資系レコード会社か。いや、迷ったのは半蔵門か池尻大橋か、かも。卒業後は寮のある西武池袋線沿いに住みたいと思っていたので、有楽町線で麹町に出れば半蔵門まで徒歩で通える。田園都市線はなじみがなく家賃も高い、ということでミュージックバードを選んだ。

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池尻大橋まで内定辞退のお詫びに行き、帰りに渋谷で映画を観た。ホドロフスキーの「サンタ・サングレ」の残虐な映像に気を失いそうになったが、これで長い就職活動が終わったと安堵した。すでに10月になっていたと思う。当時はバブルど真ん中、何につけても楽天的だった。あのときポリドールを選んでいたら、レコード業界に進んでいたら、と今も時々思う。

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ミュージックバードのことはいくらでも書けるが、本章では就職活動とレコードに限定する。FMセンタービルの資料室で、レコードが好きなだけ借りられたのは至福だった。3年間でいったい何枚借りただろうか。会社のコピー機を使いライナーノートや歌詞カードをコピーし、大学ノートでリストを作った。ここで初めて知ったアーティスト多数。Andewella、Keef Hartley、Grin、James Gangなど。なかでもHeads, Hands & Feetは忘れられない。Albert Lee率いる70年にデビューした英国スワンプロック。最高だ。FMが開局した1970年前後にレコード会社の洋楽プロデューサーが売り込んだのだろう。とにかくすごい部屋で、ここで受付をして過ごしたいと思った。

この頃は学生時代に買ったSONYの安いミニコンポを使っていたが、買ってすぐCDプレイヤー売り飛ばしたので依然としてCDはかけられなかった。さすがに91年ともなるとCDが基本フォーマットなので、最初にもらったボーナス(最初はFMと同じ3ヶ月だったが開局前ということですぐに1ヶ月に減らされた)が出てすぐに秋葉原の石丸電機に行き、PanasonicのMASHプレイヤーを買った。学生時代に入り浸っていた国分寺の中古レコード屋へも足が遠のき、このあたりからレコードを買うことはほとんどなくなった。そのかわり池袋乗り換えになり、WAVE(池袋西武向かい)や山野楽器(PARCO)で輸入CDを買うようになった。学生時代に数十枚だったCDコレクションが一気に500枚ほどに増えた。

買い方は相変わらず「Rock Handbook」を参考文献にしていたが、山野楽器で買った「Rare Rock」というトンデモナイ本を見つけて、さらにロックの深い森の奥へ入っていった。洋書といってもほとんど私家版で、アルファベット順にアーティスト名がタイプライターで打たれたコピー製本のような簡素な作りだが、星の数でレア度を判定するユニークな本だった。和書文献も増え、何がいいのかわからないがただただ珍しいだけ、という基準で買っていた。今ある3000枚ほどのコレクションのうち、半分以上がこの買い方で手に入れたCDだ。今も聴いているかといえばまったく聴かない(笑)。山小屋に持ってきたところで誰も喜ばないだろう。このまま娘に相続するしかない。

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さて平成篇は初頭のエピソードのみとなった。終わりまで書けないわけではないが結婚後のことを書いても面白くない。今はミッシェル・ポルナレフが20枚ほどとアメリカのバンドSPIRITが同じくらい、その他手放せないレコードが200枚ほどあるのみ。今も時々買うが、大学生になった娘と一緒に聴くために、さらに言えば彼女の子供に聴かせたいと思えるレコードだけを買うようにしている。レコードもCDも、俺の偏頗な趣味を引き継いでくれる人間がいるだけでもラッキーだ。


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山小屋がこれからどうなるか皆目わからないが、いつか令和篇を書きたくなったら、また。

10/9(土) 石巻の絵描きたち

 

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石巻のフォトジェニックな街角を瑞々しいパステル画で表現した故浅井元義先生の展覧会が今年もやってくる。長年教壇に立った県立石巻女子高校(現好文館高)美術部OGさんたちの、恩師顕彰活動の一環で、2018年の没後から3回目になるだろうか。毎年行ってるつもりだが去年の記憶がない。コロナでやらなかったかもしれない。

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9月に門脇のまねきショップ前の掲示板でポスターを見つけたので、店内に貼りたいとOGさんに提供をお願いしたら幹事数名でご来店いただいた。早速壁に貼り、インスタで紹介した。

浅井先生とは生前あまりご縁がなかった。高校で美術部だったので当時から御高名を存じ上げていた。当時(1983〜4年)「五高会」という交流会があり、石巻高校、石巻女子高、市立女子高、工業高、商業高の美術部で通年活動した。スケッチ会や日和山野外展、川開き祭りには観慶丸本店(新館)で前で似顔絵描きをした。秋の五高展はホシノ2階だった。今のニューゼやレストラン茅(かや)があるところだ。

そのなかで浅井先生率いる石巻女子校(セキジョ)美術室に集まって人物デッサンの講習会があり、そこで初めてお会いしたと記憶するが、他校男子部員を相手するわけもなく、人物デッサンなんてどうすりゃいいのさ?とわけもわからず美術室の真ん中に鎮座した某女子(いまや山小屋常連さんである!)を黙々とデッサンしたという苦い?思い出があるのみ。浅井先生の思い出でも何でもないが。

叔父(母の弟)が浅井先生と高校同期だったのでよく話を聞いた。当時から絵が巧かったらしい。親父の大学後輩でもあり、ともに市内高校教員だったので名前くらいご存じかと思い、2014年頃にナリサワギャラリーの黄土展(市内美術団体)会場で浅井先生をお見かけした際に名刺を渡したのだが、親父もお袋(押し絵師範)も記憶にないとのことだった。

浅井先生や叔父と同学年で、熊倉保夫さんという画家がいた。生前は存じ上げなかったが、震災後に息子(高校同期)が作っているカレンダーを毎年購入して愛用している。個人的には熊倉さんのほうが好きだ。浅井先生のは絵になりすぎているのと、パステルの柔らかな感じが自分の志向と異なる。熊倉さんの大胆な構図、荒々しいマチエールのほうが、石巻という街を現しているように思う。

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翻ってわが石巻高校美術部恩師、橋本和也先生は、黄土展のほかに中央画壇の旺玄会にも出品していたが、描く絵はラグビーばかり。美術部顧問のくせにラグビー部の練習ばかり。指導していたのかスケッチしていたのかわからないが、とにかく美術の指導を受けた記憶がない。まぁそういうところがウチらしいのだが。浅井先生は、その点はキチンと指導していたのだろう。だからOG会が熱心なのだ。

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橋本先生の絵が一枚、山小屋に飾ってある。仙台の叔母(お袋の末妹)宅にあったものを開店祝い代わりにもらった。1979年頃に家を建てた際にお袋が新築祝いに贈ったものだ。橋本先生の奥さんと短歌仲間だったので家族ぐるみのおつきあいをさせていただいていた。造船所のクレーンが居並び当時の中瀬の活気を思わせるが、どこか冷静な視点に見えるのはマット(艶消し)の絵の具を使っているからだろうか。浅井・熊倉両画伯の画風とも違い、こちらも味わいがある。

ほかに絵描き・美術教師で思いつくのは、東条照夫先生。門脇中で教わった。親父の一個下なので90歳近いが今もお元気で、先日も南浜復興祈念公園内のカフェどんぐりで個展をやったばかりだ(それには行けなかったが昨年のイトーヨーカドーあけぼの店個展でご挨拶した)。

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東条先生はちょっと硬いところがあって、お袋の押し絵展に来て「遠近がおかしい」と指摘して帰ったと、お袋が怒っていた。押し絵は浮世絵や美人画を元絵とする絵画表現なので西洋の画法と相容れないのは当然だが、許容し難かったのだろう。

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ここに紹介した絵描き(恩師)それぞれに石巻を想い、自らの表現を駆使して石巻を描いた。多少なりとも交わった者として、その顕彰作業には関わっていきたい。山小屋に来れば、そうした絵が見られるという環境をできるだけ維持したいと考えている。(マジメか!)

さらば、アタックチャンス。

クイズ番組「アタック25」が9月で長い歴史の幕を閉じた。日曜午後、お茶の間に憩いの時間を提供し続けた長者番組だ。お疲れ様と言いたい。

朝日新聞】最後のアタックチャンス!「アタック25」46年の歴史に幕

https://www.asahi.com/articles/DA3S15056014.html (記事全文は最下欄に)

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チャンネルはテレビ朝日系列(宮城では東日本放送)だが制作は大阪朝日放送(ABC)。児玉清さんのクールな進行で関西制作を感じさせなかった。思えばほかのクイズ番組のMCも俳優が多かった。タイムショック田宮二郎クイズグランプリの小泉博など。田宮死後は山口崇だったか。

ちなみにこの前の時間帯「新婚さんいらっしゃい」は大阪丸出し。最後の景品ゲームに出てくるYes/Noマクラの意味がわからなくて、親に訊いたらとても困った顔をしていたのが思い出深い(笑)。

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さて本題。93年だったか思いつきでアタック25の東京予選に出場したことがある。当時勤めていた会社後輩に「博識なんだから出てみたら? 後ろの応援団席で応援しますよ」とおだてられて、話のタネに応募ハガキを出したら書類選考を通過した。

呼ばれたのは芝公園朝日放送東京支社のビルだ。広い会議室に通され、50人ほどで筆記試験を受けた。笑ったのはディレクターがラジカセを持ってきて、開始前に番組のテーマ曲を流したことだ。♫パネルクイズ〜ニジューゴ〜シャンラララランシャンラララン〜。ムードを盛り上げようとしたのかしらん。

試験の出来はあまりよくなかった。一個だけ覚えているのは「国や地方公共団体の予算や会計などの検査を行う独立機関の名前は?」という問題で「会計検査院」と回答したこと。まぁ無理だろうなと30分ほど待っていたらディレクターが戻ってきて二次面接に進む名前を読み上げ、何人目かに名前が呼ばれた。まじか。全部で7〜8人いたと思う。

小さめの会議室に全員で入り一人ずつ面談を行う。3〜4人のスタッフが座り、真ん中のディレクターが進行・質問していた。住所や職業など、時に会社の実名を挙げてかなり突っ込んだ質問をされた。

通信衛星ラジオ局? どんな会社なんですか? そこでどんなお仕事を?」

答える内容よりもそれらをどんな感じで話すのか、回答者のキャラクターを重視されたように思う。クソ真面目に「朝日放送様にもご出資いただいております。開局したばかりですがCS-PCMという電波そのものが認知されておらず苦戦しています」などと話した。バブル崩壊直後でネガティブなことしか言えない状況だった。趣味は特に訊かれず職業(会社名)で引っかかっただけのこと。社会人3年目、笑顔の少ない実直総務マンだったのでウケがいいはずがない。案の定、数日後に落選通知が届いた。

平成に時代が変わったその頃には、昭和の視聴者参加クイズ番組は低調を極め、「ドレミファドン」や「平成教育委員会」などタレントが回答する番組が増えた。「100人に聞きました」「アメリカ横断ウルトラクイズ」などは頑張ったほうかもしれない。

これ以上、特に書くことはないのだが(笑)、一度でよいからスタジオで本戦に出てみたかったーーという話。今なら「山小屋店主」ということで面接に通過する自信はあるんだがなぁ。

(記事全文)

初代司会に児玉清さんを迎え、「パネルクイズ アタック25」(ABCテレビ制作、テレビ朝日系)が始まったのは1975年。当時は、「アップダウンクイズ」(TBS系)や「クイズタイムショック」(テレ朝系)などクイズ番組の全盛期で、多くは視聴者参加型だった。アタック25も一般から募集。これまでの出場者は9千人以上にのぼる。

オセロのように25枚のパネルを取り合うことで、解答者はクイズの知識や勝負師のセンスが問われることに。「お手つき」覚悟の早押し競争も、視聴者の目を引き付けた。そして、終盤の大逆転を可能にするあのルール。「アタックチャンスのもたらす予測不可能でスリリングな展開が、長年の人気を支えてきたのでは」と同番組の秋山利謙プロデューサーは推測する。

ただ近年は、よりマニアックな知識を問うクイズ番組が台頭。アタック25の視聴率は5~6%台で、ピーク時の24・2%(1979年、関西、ビデオリサーチ調べ)に比べると大幅に下がった。マンネリ化も指摘されており、幕引きを迫られる形となった。

最終回は26日午後0時55分から。歴代王者の中から、決勝ラウンドに進んだ4人が解答席に座り、おなじみのルールでパネルを奪い合う。(西田理人)

■テレビ見ない若者に危機感 長寿番組、相次ぐ終了  「メレンゲの気持ち」「とくダネ!」「ちちんぷいぷい」――。今年は数々の歴史的番組が引退した。  ABCテレビの山本晋也社長は7月、定例会見でこう説明した。「若年層のターゲットを考える上で、コンテンツの見直しをしていかなければなりません」

強調したのは、U49と呼ばれる49歳以下の視聴者の獲得強化。NHK放送文化研究所の昨年の調査結果を引き合いに出し、「10、20代はこの5年間で大きく下がっている。この層に届くコンテンツを作っていくのは当然のこと」と危機感をあらわにした。

調査によると、平日に15分以上テレビを見た人は、10~15歳が56%(2015年は78%)、16~19歳は47%(同71%)、20代では51%(同69%)。10、20代の半数がほぼテレビを見ない結果になり、業界を震撼(しんかん)させた。

アタック25の視聴者も中心は中高年層で、クイズの出演者も40代、50代が多い。いつの間にか、U49向けの戦略にはなじみにくい番組になっていた。

売りだった素人参加型も、時代とともに変わった。リアルタイムでなくても番組を見られるTVer(ティーバー)などが普及し、いまや配信ありき。準キー局の制作担当者によると「出演者の中に素人が交じっていると権利関係がややこしくなる。使い勝手を考えると、事務所を通してやりとりができる芸能人ばかりの方が都合がいい」。

背景には、スポンサーの意向も影響している。若い世代に商品を買ってほしいという要望に応える必要がある。ただ、若者たちを振り向かせるハードルは高い。人気ユーチューバーを起用したり配信と連動した番組を作ったりと必死だ。

しわ寄せは結局、約20年、30年と続く長寿番組へ押し寄せる。

だが、放送が終了したからといって、すべてが終わるわけではなさそうだ。ABCテレビの山本社長も「これでアタック25が世の中から消えるということではない。また違う形の展開があるかもしれない」と、その可能性を示唆する。

近年は、往年の番組を海外へ売り出すビジネスも盛んだ。制作のアイデアや演出、スタジオセットといった番組作りのフォーマットが海を渡り、現地版として新たに制作されることで、2018年度のフォーマット・リメイク権は約41億円(総務省)。5年前の4倍以上に上る。

昭和の人気恋愛番組「パンチDEデート」(関西テレビ)は2013年、ベトナムで現地版の放送を開始。1985年の最終回から30年近くたった復活だった。 (土井恵里奈)

■近年放送終了した主な長寿番組 ◇笑っていいとも!  フジテレビ 1982~2014 ◇はなまるマーケット  TBS 1996~2014 ◇とんねるずのみなさんのおかげでした  フジテレビ 1988~2018 ◇めちゃ×2イケてるッ! フジテレビ 1996~2018 ◇『ぷっ』すま  テレビ朝日 1998~2018 ◇メレンゲの気持ち  日本テレビ 1996~2021 ◇とくダネ!  フジテレビ 1999~2021  (「とんねるず~」は前身番組「~おかげです。」時代含む)

■放送の続く主な長寿番組  番組名・制作局・放送開始年 ◇NHKのど自慢  NHK 1953 ◇MUSIC FAIR  フジテレビ 1964 ◇笑点  日本テレビ 1966 ◇サザエさん  フジテレビ 1969 ◇新婚さんいらっしゃい! ABCテレビ 1971 ◇徹子の部屋  テレビ朝日 1976 ◇タモリ倶楽部 テレビ朝日 1982

10/2(土) 「おめー、どご中や?」

(承前)横になってうとうとしていたらメッセンジャー。誰だ?

「開いてんの?」

Oだ。隣のI中学出身で高校同期。向こうが2年に上がれず留年したので交流なかったが震災後Facebookで仲良くなった。これは知らせねばなるまい。Oと同じI中Tちゃん、仕事でO家と関わりのある、わがK中同期Yにそれぞれ「来るってよ」とメールした。

19時過ぎにO登場。4年ぶりか。Oは実家がこの近所。今は関西暮らしだが親父さんの調子が悪く見舞いがてら帰省したという。

「この通りは子供の頃の遊び場。夏休みにはラジオ体操もしたよ。しかし何でまた店なんか」

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それはね、と説明を始めたところへTちゃん登場。抱きつかんばかりの興奮状態。幼なじみなんだね。昼間に店に誘ったら「イベントで疲れたからまた今度」と言ってたくせに、Oが来ると聞くや自転車を飛ばしてきた。なんだチクショー。

お互いの思い出話、積年の想いを語り合う二人。おいおい、俺に会いに来たんだよOは。I小I中の先生や友達の名前を言われてもちんぷんかんぷんだ。店の話も途中じゃないか……と思ったがお口にチャック。お客さんが楽しげに話してるのを制することはできない。温かく見守った。

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まぁでも、それに近いことを少し言ったらすかさずOが「俺たちの縄張りに店なんか出したらこうなるの当たり前だべ」と。ぎゃふん。二の句が告げなかった。

俺は海側のK小K中出身だが、ここ山小屋は街なかのI小I中学区ど真ん中。高校は同じでもたかだか3年の話。小中9年間を共にした幼なじみには敵わない。

もっと言えば、同学年女子とは微妙な距離感がつきまとう。石巻は高校から男子校女子校に分かれるからだ。中学が違う異性とは一生交じわれない。Tちゃんとも2年前に偶然知り合った。同じようにI中から女子校に行った子たち(昼間に来たIさんとか)は同級でも同窓でもない。それでもなぜか仲よくしてくれる友人が多いのは、I小I中のフレンドリーな性格(校風?)によるのだろう。

駅前の商店街で小売店や飲食店、美容院をしている家に生まれ、両親が働いている昼夜は互いの家に遊びに行き、一緒に食事をしたり風呂に入ったりしたという。同級生を超えた関係だ。俺らK小K中は公務員、会社員、工場勤め(製紙会社の社宅住まい)が多く事情が異なる。商人気質でもないので性格もおとなしめだ。I小I中生は逆に図々しいところがある。

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「山小屋をK小K中の溜まり場にしたい」という当初の企みは、今のところ当てが外れた格好だ。まぁ隣の学区に店を出してたらしゃーねーよな、と思っていたらドアが開いた。Yかと思ったらS子だった。今日の古本市に親子で出店していて、家族での食事が終わったらしい。カウンターの二人を見て「Tちゃん? やっと会えたー!」と抱きついた。ここも幼なじみ。45年ぶり。Oのこともすぐわかったようだ。すごいね、フルネームで出てくる。Oも面喰らっていた。3人でふたたびI小の話で大盛り上がり。もう勝手にしてくれ(笑)。

9時を回りTちゃんが帰るのと入れ替わりでY来店。やっと加勢(K小K中OB)が来た。S子も帰りここからは男同士の飲み。なんだかんだ2時まで。飲んだねぇ。

記事タイトル「おめー、どご中や?」は石巻で初対面の決まり文句。どの中学を出たかから全てが始まる。そんな街で店を出した俺。K中のくせにI中学区に店を出した俺。K中はあまり来ずI中軍団に翻弄される俺。もうどうでもよい。どこ中だろうと女子校だろうと、石巻を語れればよいのだ。そんな店でありたい。

*文中写真は震災前2007年頃の石巻街なかの風景(某ブログより無断転載)

10/2(土) 古書店兼業カフェの試み

3度目の出店となる石巻一箱古本市、つつがなく終了。予想に反して開店直後(11時〜)から来客がひっきりなし。メインエリアから離れてはいるが、駅に近いので「ここが最初です」という人が多かった。事前に束見本販売を宣伝したのも奏功したかも。束見本だけ買っていく客が多かった。これは売れないだろうなという本から売れていったのも面白かった。逆も然り。そういうところが面白い。

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前日に石巻入り。久々に新幹線で、台風とともに北上してきた。20:30店着。若いカップルが来てくれた。インスタフォロワーさんらしい。こんな天気にありがたい。東京駅で買った築地だし巻き卵、イカにんじんを出したら喜ばれた。その後は客は来ず、閉店まで古本市の準備。翌朝、まちの本棚に寄って出店料を払い、ノボリをもらって店へ。テーブルを表に出し、本を詰めた折りたたみコンテナをそのままボンと載せた。これが一箱流。

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午前の客は初めての人ばかり。

石巻に長年住んでるけど、こんな通りがあるなんて知らなかったよ」

「店は週末限定なのすか? んで今度来てみっから」

と古井戸通りと店をアピールできた。前日に仕込んでおいたアイスコーヒーをサービスで出したらどんどん出る。台風一過で汗ばむほどの陽気だ。本の会計の合間に上野謹製フレンチロースト豆を何度も挽き、コーヒーを何度も淹れる。終始こんな調子だった。

昼過ぎからは知った顔がチラホラ。向かいのおり姫ママ、品川屋ビルのエスポワールママ、もぐもぐのリサちゃん、松ばるのトモヤ君が来てくれた。同級生も多数。初めて会う石巻中出身の同期Iさんとは初対面。水彩画を描いていてパースを勉強したいと相談を受けたがそういう古書は見当たらず。スマホで見せてもらったがとてもよい。水彩のマスキングという技法は初めて知ったが光を表現するのに適している。市民文化祭に出品するらしい。頑張ってほしい。

その後も街づくり研究、フランス文化研究といった大学の先生方がご来店。この古本イベントはいろんな学究に見守られている。15時過ぎにようやく落ち着き、その街づくり専門M先生に店番を任せてノボリを返却しに出た。腹がグーと鳴った。昼飯を食う時間がなかった。もりやでカツカレー蕎麦。茶蕎麦だったのね。

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店に戻って先生と交代。テーブルに名刺が置いてあった。東京のラジオ局の人。震災後、ボランティアや復興支援でよく来ているのは知っていたが面識がなかった。俺が91年に新卒で入った会社だ。話したかったなー。もう少し早く来てくれればよかったのに。

16時、誰もいなくなった。やっと休憩できると表のコンテナを片づけていたら仙台の従姉Y子が現れた。「来ちゃった。寄っていい?」。はいはい、どうぞ(内心ため息)。そこへ「山小屋さーん」と呼ぶ声。古井戸のあたりで同級生S子の娘が手をふっている。母親と一緒に古本市に出店していたのだ。「コーヒー飲ませてくださーい」。やれやれ。

客がいなくなったのは17時半。開店から6時間超。さすがにバテた。カフェタイムと古書販売を同時にやるのは無謀だったが、お客さん同士の交流が生まれ面白い効果があった。山小屋で「わー久しぶり」と顔なじみとバッタリ出会うことが多かったよう。古本市と山小屋との客層がぴたっとマッチした。

コーヒーをサービスしつつ店の名刺を渡し、ぜひ今度はお酒でも飲みに来てくださいと宣伝した。店の中も興味深げに見学していく。こういう場末の店に入ることに慣れていないのだろう。少しでもハードルを低くしたいところ。

そういえば偶然の出会いがあった。若い女性が本を一冊抱えて店内に入り、劇団どくんごのポスターを見て「ご存じなんですか?」と訊いてくる。兄貴がいたんですと言うと「私、Yの娘です」と。えー! 門脇の3軒隣のお米屋さんの? Yさんは兄貴の幼なじみで劇団がテントを張る場所の使用許可やチケット販売などをやってくれていた恩人だ。まさか娘さんと会えるとは。「ここ安いですね。今度お邪魔します」。これは楽しみ。昔話がいろいろできる。

今日、出会った人たちの顔を思い浮かべながら19時のバータイムまで横になった。

※夜は夜で大騒ぎだったが、長くなるのでいったん切る

【10月1日以降の営業について】

明日10月1日から宮城県全域の飲食店を対象とした時短営業要請と酒類提供制限が全て解除されます。山小屋も営業を再開いたします。
明日は仕事の関係で何時に石巻に着けるかわかりませんが20:30頃には開けたいと思っています。あいにく猛烈な台風16号が接近中です。無理な外出はお控えください。
それでは週末の皆様のお越しをお待ちしております。

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9/27(火) 版画贋作騒動に思う

4連休を石巻で過ごし26日に東京にバイクで戻った。22日夜に出発して那須泊、温泉ツーリングで福島を回って石巻入り。24〜25日はリボーンアートフェスティバルを回った。とてもよい作品があったのでいずれ詳しく書きたい。


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お盆明けからひと月半、客を入れずに店でガチャガチャ作業していたのでだいぶ散らかっていた。10月1日から宮城は時短要請解除になるのか現時点では不明だが、解除濃厚と踏んで店内を片づけ。なんとか客を入れても大丈夫な状態になったかな。製氷機もON。2〜3日後には満杯になっているだろう。


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店先にポスターを貼った。10月2日開催の石巻一箱古本市。今年で3回目の参加になる。山小屋の通りはメイン会場から離れるので別枠扱いになってしまったが、古本市のノボリも貸してくれるそうだし、こっちまで客足が伸びてくれればうれしい。台風が心配だがまぁのんびり。

東京に戻ったら東山魁夷平山郁夫の版画の贋作が出たというニュースでもちきりだった。ネットニュースだけでなく地上波ニュースでも特集を組んでいた。それほどニュースバリューあるのかと思ったら、贋作はデパートで売られたらしく、その流通経路や鑑定能力などが騒がれているらしい。デパートなら安心して買うわな。販売価格は100〜200万円ってところか。

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最初に思ったのは「版画の贋作? 複製を複製しただけだろ」ということ。原画写真から版を起こしリトグラフなどで100枚以上製作するラージ・エディションの版画(エスタンプ)をアートとは思わない。画家が画商に複製を許可して印税をもらうシステムで、美術品というより出版物に近い。

ぼくもエスタンプに関わったことがある。今回、贋作が見つかった一人の平山郁夫先生(1930-2009)の絵だった。勤めていた出版社が画商(古物商)の資格を持っており平山さんに200部程度の版画製作を持ちかけた。作品は「アンコールワット遺跡 夕陽」だった。手順は手持ちの写真の分解から始まる。画家は自分で写真を管理していることが少なく、出版社や図録屋などに委託している。うちは団体展の誌面紹介をするので、平山さんが所属する日本美術院(院展)や日展など大きな団体展は必ず撮影に行っていた。9月から11月にかけての団体展シーズンは忙しい。朝8時に上野の東京都美術館に入り、開館する10時までの2時間、2班の撮影隊に分かれて会場の作品を撮りまくる。ここで撮っておけば未来永劫、自分たちの写真が使える(もちろんその都度著作権者の許可をとる)。中型ブローニーで「4の5」と呼ばれる大きなポジフィルムだ。だいたいハガキサイズ。これなら大きなポスターにまで使える。

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アンコールワット遺跡 夕陽」は1999年の院展出品作。畳6枚分ってとこか。版画はせいぜい30号、オフィス机の天板程度だ。サイズが決まったら業者にフィルムを渡して分解・色校正をするのだが、校正には院展図録が役に立つ。製作時に画家や団体のチェックが入っている(この色味で間違いない、という公式印刷物)のでそれを目標に校正を進める。再校や三校を画家に見せてOKをもらえば校正は完了だ。

鎌倉二階堂にある平山邸に色校正を持参して見てもらい、その場でOKをもらった。画家は自ら岩絵具を溶いて、どういう色で画想を表現するか腐心するので、色については画家の眼がいちばん確かだ。平山さんは「いいんじゃないですか」と言ったと思う。この「いい」には「複製画にしては」というニュアンスが含まれている。版画の色彩表現(現場)に立ち会わず、他人が製作し販売する物を頒布前に了承するというのがビジネスのルーティンである。ぼくが「エスタンプ版画はアートではない」という根拠はこの一点に尽きる。画家が製作にほとんど関わっていないのだもの。複製品をデパートで数百万円で買う神経がわからない。まぁ自分のものとして買うのでなく、取引先のビル新築や銀座クラブの新装オープンなどに贈るんだろうけれど。

色校が終われば実際にプリント…いや、版画製作に移る。版画工房の見学をしたことはないが、いちおう手刷りなんだろうね。プレス機で一枚一枚刷り上げていく(と信じたい)。多色刷りでたとえば4色同時に刷れるとして、32版なら8回刷ればよい。版を合わせたり色ムラが出ないようにしたり、それなりに高い技術は必要だ。

版画ができたらサインだ。250枚超の版画を抱えて平山邸に運び入れる。広い和室に通され、座卓のうえに版画を積み上げ、先生が一枚一枚鉛筆で「郁夫」と書いていく。ぼくの仕事はその隣で受け取り、版画に落款(印)を捺す。先生からお預かりした落款に印泥をつけて慎重に捺していった。ほかにエディション番号(何枚中何番というシリアル番号)も必要だが、これはどうやって入れたか忘れた。先生は書き入れなかったように思う。版画工房ですでに入れてあったんじゃないかな。二人とも無言で小一時間の作業。連帯感や協働意識などない。ものすごくドライな作業だった。平山さんも、こんな恥ずかしい時間を持ちたくはなかっただろう。挨拶もそこそこに、逃げるように社に戻った。
ご印税は販売価格(上代という)×刷り部数×10%なので、仮に上代150万とすれば1部あたり15万円が画家に渡る。色校1回とサイン250回で3000万円超の収入。言っちゃ悪いが「濡れ手で粟」だ。もちろんうちも儲かる。こんな楽で儲かる仕事なら誰でもやりたいと思うだろう。だがそこは先生とうちとの信頼関係だ。多種のリトグラフの大量頒布が画家としての資質や評価を下げることを本人が心配していたかどうかはともかく、売れっ子画家は「ここなら任せられる」という版元にしか版画製作の許可は出さない。雑誌や年鑑本などで画家との信頼関係を長年築いているからこそ、こういうオイシイ話を持ち掛けられる。ポッと出の画商にはできない相談だ。

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だから贋作が出る。画家との直接契約ができないので、版画を買ってスキャニングして、似たような製法で「印刷」する。スキャニングやプリント技術が進んで素人目にはわからない。デパート店員もわからないだろう。仕入れ時にすでに額装してあり、ガラス越しに鉛筆のサインや落款の真贋を見抜けるのは専門家や遺族にしかできないだろう。額の裏面に「共(とも)シール」(鑑定者名、版元名)が貼られていれば、それを信じるしかない。あとはデパートとの信頼関係次第。こちらもポッと出の画商とは付き合わないはず。なぜ贋作ばかり扱う三流画商がデパートと取り引きできたのか?

繰り返すが、エスタンプはアートではない。画家もしくは遺族(著作権者)公認の複製画に過ぎない。そんなものに100万円以上の高値がつくので、おかしな話になっている。100万円あったら、もっとイキのいい画家の一点ものが何点も買えるのに、権威主義・拝金主義から高値保証の著名画家エスタンプに触手を伸ばす。贋作画商・贋作版画家はその空疎なビジネスの虚を突いたのだ。擁護はしないが、贋作を買わされた顧客には同情できない。複製をありがたがる人には、贋作を与えておけばじゅうぶんじゃないかとさえ思う。もっと言えば、贋作だろううが真作だろうが関係ない。そこ(エスタンプ)に画家の魂はあるのか? 100万円の価値はあるのか? 少なくとも平山さんのサインを書く姿を見ていて、画家のやる仕事とはとても思えなかった。

これ以上書くとコードに引っ掛かるのでこのくらいで。