港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

長谷川きよし御大の面前で

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1997年だったろうか。社長とケンカして会社を辞めることになり、することもないので石巻に帰った頃のこと。両親が南浜町に家を建てたばかりで、壁紙の糊などの化学薬品が持病の喘息発作を誘発して、吸引器のサルタノールが欠かせなかったのを覚えている。定年退職した親父の退職金を元手に慣れ親しんだ門脇町(旧町名:後町)から数百メートルのところに家が建ち、近所とはいえ知り合いもなく、帰省する身としてはひたすら居心地の悪い(田舎言葉で「いずい」)ことこの上なかった。

部屋でゴロゴロしていたら西光寺のS子から「今夜空いてる? うちに長谷川きよしが来るよ」と電話があった。へー。盲目のシャンソン歌手。和製ホセ・フェリシアーノ。私淑していた作家Hさんのカラオケに毎度つき合わされてたから「黒の舟唄」「別れのサンバ」はお手の物だ。檀家は無料だというので行くことにした。

寺の青年部が主催するコンサートは西光寺の名物となっていたが、たまたま青年部に長谷川きよしの大ファンがいて招聘に漕ぎつけたという。阿弥陀如来坐像が鎮座する本堂をステージ代わりに、ベースやピアノのバンドを従えて長谷川きよし御大のライブを堪能した。伸びやかなヴォーカルと超絶スパニッシュギターに酔いしれた。

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(2012年に西光寺本堂で行われたゴスペルコンサート)

ライブ後の打ち上げにも参加することになった。酒盛りで賑わううちに、その場に居合わせた人間が順次自己紹介、「石巻出身作家Hさんのアシスタントをやっていて長谷川さんの歌を二人でよく歌っております」などと話したと思う。あとのほうで、ライブを企画した長谷川ファンがクラシックギターを持参していて「別れのサンバ」を弾くと言う。誰か歌ってくれないかとなり、S子があろうことか「ここにいるよ」と俺を指差した。バッカヤロウ、本人の前であの名曲を歌えるわけがないだろが。みんなの拍手で後に退けず、もうどうにでもなれと空のビール瓶を握ってマイク代わりにした。

♫チャッチャーチャラッチャラッチャー…軽快なリズムでギターの前奏が始まり、「なーーんにもーーおーーもわずーー なーーみだもーーながさずー」とAメロを歌い、「きっとーーわたしをーーつよくーだくとっきーもー」とBメロを歌い、さぁここからサビで盛り上がろうというところでギターがトチった。「ダメだー、ごめんなさい」と演奏中断。なんだよ、最後まで歌わせてくれよ、と思ったような思わなかったような(笑)。それでもみんなヤンヤと盛り上がっていた。

https://youtu.be/2qMzBDe66s8

終わって長谷川さんのところへ行き「みっともないことしてすみません」と謝ると、「いやいや、よかったよ。ところでHさんのアシスタントしてるって? 僕はあの人の書く文章が大好きなんだ。尊敬してる。よろしく伝えてください」と言ってくださったのがうれしかった。

幼なじみのS子に東京での暮らしぶりや仕事ぶりの片鱗を見せられたのが、ちょっとだけ誇らしく思ったような。S子の親父さん(住職)とは、少し前に旧知のHさんを囲んで3人で六本木(瀬里奈だったか?)で飲んだこともあった。理事を務める埼玉の私大の図書館にHさんの著書を寄贈したいと現金をいくらか預かっており、新刊が出ては買い、届けている報告などもした気がする。

副住職(S子の兄貴。2021年から住職)のNさんもその場にいたと思うが、当時はそれほど親しくなかったのでこの日は話した記憶がない。震災後はこの人からいろんなことを学ばせてもらった。当時の自分の羅針盤がHさんだとするなら、震災後はNさんだったと言っても過言ではない。

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宴が終わり、寺のある門脇から新しい家のある南浜まで慣れない道を一人トボトボ歩いて帰った。「長谷川きよしの前で歌っちまったよ」と今しがた起きたことを反芻したが、親父とお袋には恥ずかしくて言えなかった。それでも人生のなかで数少ないハイライトシーンがあるとするなら、この日の出来事だと今も断言できる。孫子の代まで語り伝えたいほどだ。

Hさんとは、その後も何度かカラオケをした。「長谷川きよしの前で歌っただと? なんて破廉恥な」と呆れられてしまった。たぶん羨ましかったのだろう(笑)。「中上健次の前で歌ったときは緊張したなぁ」とか言ってたっけ。文学者とカラオケについて、誰か書いていないだろうか。Hさんとのカラオケ体験について、そのうち機会があれば書いてみたい。

さて、今夜もどこかの店で歌っちゃおうかな。

年末年始イベント構想

あっという間に年末を迎えた。イベントは苦手なのだが客商売となればそうも言っていられない。12月に入った頃から「山小屋にとってのクリスマスとは?」「年越しとは?」「正月とは?」とイメージを練っていた。

クリスマスだからと、ローストチキンやケーキでもないだろう。まぁ何か適当に作るさとイブの朝に車で国道4号を北上、石巻に入ったところでスーパーにかけこみメニューを急拵え。ローストビーフとシェパーズパイとワインゼリーにした。

シェパーズパイは東京の地元バーでよく食べている。ミートソースにマッシュポテトを乗せてオーブンで焼くイギリスの家庭料理。肉料理を牛にしたのでこちらはラム肉にした。薄切り肉しか売っていなかったので細かく刻んで玉ねぎみじん切りと炒めてトマト缶をぶち込む。茹でて冷凍してあったジャガイモを解凍、牛肉と粉チーズと一緒にマッシュ。あとは二層にしてトースターでチン。簡単。


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ローストビーフは、塊肉を買ったつもりがステーキ肉だった。トレイ中央が底上げされ肉が盛り上がっていてわからなかった。脂身多くて失敗。でも味はよい。


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デザートにワインゼリーを作ったが、良かれと思って赤ワインを濃いめに作ったらドロドロに固まって失敗。25%ぐらいでほんのり作るのがよいみたい。

さて、次は大晦日だ。店をやりたいが西光寺の年越し法要の時間次第。やれるなら蕎麦を出したい。ダイニング銀河でも年越し蕎麦は恒例になっており、特に珍しいことはないが、山小屋は深大寺蕎麦で勝負する。東京のわが家は深大寺の目と鼻の先にあり、親戚へのお歳暮は門前そばの生蕎麦と決めている。店用に多めに買ってあるのでスタンバイOK。客が来ればの話だが。

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正月もあれこれ考えたが、今さら雑煮でもないだろう。今年、うまく行かなかった「おくずかけ」を出したい。あとはまた深大寺蕎麦。正月らしいのか、らしくないのかわからんが。ホンコンやきそばも悪くないぞ。目玉焼きとマルシンハンバーグをトッピングで。とまぁ、想像が頭の中を駆け巡る。

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個人的に考えるのは、石巻の実家で正月をじっと過ごしても退屈だろう、ってこと。俺がそうだった。飲みに出かけたいが、親や家族の手前、一人で飲みになど行けず、つまらないテレビを一瞬に眺めるしかないのが、石巻の正月だろう。だから正月は期待している。帰省した同級生も、地元の同級生も、みんな出てこい。山小屋で朝まで話そうぜ。

12/17(金) 力を尽くさずして挫けることを拒否する

年末なのに店を休んだ。とてもつらい理由。詳しく書けないが何か書かないとやってられん。

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この言葉を30年ぶりに思い出した。大学の学生寮にいた頃に教わった、1969年東大闘争の全共闘スローガン。

 連帯を求めて孤立を恐れず。

知った時はこれだけだったが、あとで後半があることを知った。冒頭だけでは意味が通らない。文の帰結がチグハグなのだ。連帯を求めるのは孤立を恐れるからなのでは? なんらかのアイロニーがあるのだろうが、60年代の激越な学生運動のメンタリティーから生まれた言葉を、平成令和の平和ボケ感覚で推し量るのはナンセンスだ。そこを無理クリ解釈するならば、ここでいう孤立を恐れずとはノンポリどもを銃後に追いやって有志の者のみ前線に出て行け、ということだろうか。そして連帯を組んでさらに前線へ進め、ということととりあえず解釈している。

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寮にいた頃は意味すら理解しようとしなかった。立て看にゲバ文字でこう書けば格好がついた。70年代安保の猿真似でしかなかった。自分はアカだと言い張るためのスローガン。

そして後半部。これは実にわかりやすい。

 力及ばずして倒れることを辞さないが、

 力尽くさずして挫(くじ)けることを拒否する。

いうならば玉砕主義。機動隊に殴られ蹴られ両腕を後ろ手に縛られ護送車に放り込まれる美学ーーなんて言ったら諸兄氏に怒られるが、バブル前夜のうわついた時代にアカごっこをやっていた俺らの理解などその程度。寮生大会では日帝打倒、当局粉砕、闘争勝利など威勢のよいゴタクを並べ立てるけれど、翌日はサークルやバイトに埋没していた。

それでも本当の「闘争」をしていた先輩もいた。といっても三里塚や山谷でデモ隊に参加するとかじゃない。うちの場合は、地域の障がい者の自立支援活動だ。大学に行かず介護(護の字はゴンベンにクサカンムリにカタカナのゴだった)に行ったり、施設のバザーを手伝ったり。俺も何度か障がい者介護に行ったがあれはキツかった。シモの処理とかね。本気でやるのは相当の覚悟が要る。障がい者支援をしたくて上京したわけではないので、義務的にボランティアシフトに参加し、進級すれば後輩に任せていた。自分のなかでそこまで介護運動にリアリティーを持てなかった。

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何をどう書けばよいかわからないが、そんな寮にいた、という話。委員会や当番など面倒臭いことも多かったが総じて楽しかった。仲間もできた。卒業(卒寮)して30年経っても毎年のように集まっている。みんな偉くなったがこの飲み会だけは昔のまま。先輩後輩のタテ社会がむしろ心地よい。50歳半ばで下っ端として焼酎水割りをひたすら作る飲み会がほかにあるか。

これもまた「連帯」なのだ。それぞれの持ち場で最善を尽くし、その自負を持ち寄って盃を交わし互いに労う。甘ったるいノスタルジーかもしれないが、寮仲間と会う以上は、ある種のラディカリズムへの帰属意識が必須となる。歳をとるとともにマイルド(摩滅)にはなったが、昔はあーだったこーだったと愉快に話すには、今の怠惰な自分を棚上げするのは避けたいところ。俺はこうして頑張っている、肩を組んで屋上で寮歌を歌ったあの頃のように…。立身出世などどうでもよく、あの寮に生きた者として、自ら恥じるところのない状況で集まりたい。

このコロナ禍で、一部寮友にそれが不可能になっている実情をまったく知らなかった。会社を解雇され、再就職もままならず、既往症を抱え、ローンに苦しみ、友人との連絡も途絶え…。一番仲のよかった奴が、だ。俺はといえば、会社は未曾有の好景気(巣ごもり需要)。プライベートでは山小屋の準備や運営にかかり切り、リア充を満喫して周囲が見えなくなっていた。仲間のことを気遣うことなく、元気にやってるものと勝手に考えていた。いや、それすら思い至らなかった。自分のことしか見ていなかった。それが悔しい。恥ずかしい。

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寮友の急死を経て、こんなアパシー(無関心)ではいけないと、先輩後輩に片っ端から電話してLINEグループを作った。孤立し挫折する友を二度と出してはいけない。既読がつけば安否確認にもなる。せめてそういう連帯=スクラムを組んでいたい。死んだ寮友への、せめてもの供養(はなむけ)としたい。

12/10(金) 悲嘆克服の道を一人歩む

9日夜に福島に泊まった。3年ぶりの置賜スナックH。コロナ禍で来店自粛を求められていて、この夏にやっと明けたが、店で忙しくなかなか寄れなかった。コロナ前はずっとここでいろいろと相談していたので、年内に一度寄ってまゆみママにあれこれ報告したかった。

前日にLINEを送ったら、本当は休みだけどと開けてくれた。チェックインを済ませ21時に訪問。当然ながら俺一人。3年前に入れた三岳のボトルが置いてあるカウンターに座り、この2年間のことをコンコンと話す。主に山小屋のこと。どこから話してよいかわからず手当たり次第に。ぎこちないトークになったが、全部受け止めてくれるので話しやすい。やはりこの店はいい。うまく言えないが、いい。バイトのK子さんはもう来てないという。仙台に帰ったのだろうか。


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途中でNHKのSONGSを観た。ママが好きなMISHAが出るという。航空自衛隊東松島基地で唄った歌を一緒に聴いた。なんだか不思議な夜だった。久々にママとデュエットするかなと思ったけれど、カラオケをする雰囲気でもなく、閉店までずっとしゃべった。それでよかった。また来たいが、次はいつになるだろう。

翌日は伊達を通って宮城入り。梁川の伊達市立美術館に寄ったら、地元出身の彫刻家・太田良平のひどいこと。端正な女性ばかりで精神性のカケラもない。企画展は絵本作家のいわむらかずおの世界。地元小学生の校外学習で賑わっていた。こちらも縁がない。

丸森に抜ける阿武隈川沿いの県道を走っている時、ラジオがYBC山形放送に切り替わった。テレフォン人生相談室。子どもではなく大人のなので、かなりシリアスな内容。女性の相談で、20歳の娘に暴力をたびたびふるってしまい家を出て行った、どうすればよいかという相談。ガーガーとノイズがひどく、誰が相談を受けているのかわからなかったが、あとで調べたら加藤諦三社会学者)だった。50年以上やってるらしい。

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一部、隣の弁護士のアドバイスを受けながらのカウンセリングだったが、面白いことを言っていた。女性が娘に暴力をふるうのはかつて親から受けたDVが遠因しているという診断で、彼女にこう説いていた。

「あなたね、お父さんから受けた暴力とかひどいことのありったけをノートに書きなさい。ちょっとじゃダメ。ぜんぶ事細かにね。もう一字も書けないってくらいに書いたらね、そのノートを燃やすなり、川に流すなりしなさい。そうやって過去の自分とサヨナラするの。そうしたら、娘さんに対する態度は絶対に治ります」

よくあるカウンセリングだろうけど、そうかもしれないなと肚にストンと落ちた。これは儀式なのだ。心理学的、専門的に何というのかわからないが、儀式を通過することで過去のルサンチマンやトラウマ、グリーフ(深い悲しみ)と決別し得るというのはあるだろうし、実際に俺がそうだった。あれは意識的にではなかったが、あの年の夏祭りの日に、ひとり北上川で「儀式」をおこない、肉親の死を受け入れることができたんだろうなと、ラジオを聴いて得心がいった。

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誰もが同じように、儀式を通じて不幸を克服できるわけではないけれど、乗り越えられずとも「受け入れる」ところへはどうにか近づきたい。悲しみを過去に追いやるためのさまざまな儀式が、あの日以降、連綿と続いていたと思う。葬式、墓の再建、手作りの慰霊碑、自宅跡での合掌、西光寺での念仏・回向、町の復興見届けなどなど。もちろんどれもが手探りで時間がかかることだし、仕事や家事や趣味などの日々の営みのなかで、悲嘆で大きく空いた穴を少しずつ埋めてゆくことしかできない。それでも何がしかのセレモニーを意図的に挿し込むことで、「これで一区切りついたな」と思い込むことは、前を向いて一歩を踏み出す力になるだろう。

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そんなことを考えているうちに松島近くまで来た。まだ時間があるので、湯の原温泉に寄った。鉱泉を沸かしている古湯で冷えた体を温めて石巻に向かった。19時には店を開けられそうだ。石巻で山小屋をやることもまた、俺にとっては一里塚なのかもしれない。

 

テアトル東宝・東宝プラザのこと

映画関連ニュースで、ジョン・カーペンター監督特集をやると知った。B級映画の傑作「ニューヨーク1997」4Kリマスター版が上映されるという。時間が合えば観に行きたい。

https://www.cinematoday.jp/news/N0127256

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1981年に石巻のテアトル東宝か、2階の東宝プラザかのどちらかで観た。同時上映は「ハウリング」か「フライングハイ」の、これまたどちらか。一緒に行ったのは親友F、これは確実。どちらの発案だったかは思い出せないが、中2あたりから互いに洋画に興味を持ち始め、夕刊などで得た情報を持ち寄り「面白そうだから観に行くか」と話して決めていたと思う。Fとは他に「普通の人々」「エレファントマン」などを観た。

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初めてスクリーンで洋画を観たのはこの映画館。小2の冬休みに両親に連れられて。「サウンドオブミュージック」のリバイバル上映だった。ディズニーの実写映画「ラブバッグ」とのカップリングでおそらく後者がメイン。人間の心を持ったビートル(フォルクスワーゲン)が女の子のために活躍するストーリーがクラスでも話題になっていて「俺も観さ行ぐ」と言ったらガキ大将のゴードンに「うるさい、お前はサウンド〜でも観てろ」と悪態をつかれた。あいつはそういうところがあり、4年次の山登り遠足でピストル型の枝を見つけて隣を歩いていたゴードンに見せたら藪の中に投げ捨てられたこともある。それでも仲はよく誕生会に呼んだらヌンチャクを披露してくれた。

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話がずれた。「サウンドオブミュージック」が素晴らしく、生涯忘れられない映画となった。10回は観ただろうか。去年も娘とDVDで観た。「My Favorite Things」はカラオケで今もよく唄っている。主役のジュリー・アンドリュースの美声に子供ながらに酔いしれた。ちなみに沢田研二の愛称ジュリーは彼女が由来である。

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実はこの前に一本観ているのだが思い出せない。父親と一緒に観たのだが、パトカーのシトロエンがパープーと走り回っていたからフランスのギャング映画だと思うが、まさかジャン・ギャバンじゃあるまいし、恐らくは「フレンチコネクション」ではないかと。71年だから時代的にも合うし、親父が観たがりそうな娯楽映画だしそういうことにしておくが、それを初めて観た洋画にしたくはない。

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いちばん印象に残っているのはスティーブ・マックイーンの遺作「ハンター」だ。これも親父と観に行った。中2の時にテレビで「荒野の七人」を観てマックイーンに惚れたのだが、その年の11月7日に肺がんで亡くなってしまった。この映画は実によい。マックイーン作品の中でも上位に挙げたい。TVシリーズ「拳銃無宿」で一躍スターとなったマックイーンが、最後にまた賞金稼ぎ役(現代の)を演じるも、50歳近くになり捕物がうまくいかないアンチヒーローぶりが笑える。最後のシーンなどは泣けてしまう(実際はアドリブだったと後で知った)。ぜひお勧めしたい。

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その(1980年)年末にはジョン・レノンは暗殺されるなど、好きになったばかりのアーティストが次々と死んでいった。ほかにも大平正芳総理や越路吹雪が亡くなったり王貞治山口百恵が引退したり、ある意味で転換期となった。そこを親友Fと、次なるアイドル(崇拝対象)を求めていたのが中2だった。

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そのFも中3の夏に親の転勤で秋田に引っ越していき、話せる奴がいなくなった。文通は続けたが、大人の男になる訓練を、映画や音楽を聴きながら一人自主トレしていた時期でもある。テアトル東宝東宝プラザは、そんな場所だった。

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ここで観た洋画をぜんぶ書き出したいがWikipediaなどで調べてもこの程度にしかならない。誰か、あの映画館の全上映作品を調べた人はいないのだろうか? 石巻日日新聞のアーカイブならわかるかもしれない。

◆はFと

サウンドオブミュージック

◇ラブバッグ(上記と同時上映)

翼は心につけて(小6担任陽子先生に薦められて。筋肉種で亡くなった女の子のセミドキュメンタリー。石田えりデビュー作)

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◇インターナショナルベルベット(上記と同時上映)

スターウォーズ

ルパン3世 vs複製人間

ナイル殺人事件(上記と同時上映)

ルパン3世 カリオストロの城

◇スーパーマン(上記と同時上映)

ニューヨーク1997

◆フライングハイ(上記と同時上映)

地獄の黙示録

ハウリング(上記と同時上映)

◆普通の人々

◇ハンター

◆エレファントマ

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ウィングス USAライブ

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◇潮音 ある愛のかたみ(石巻出身の彫刻家・高橋英吉の映画。市制50年記念制作)

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昭和の中学生 三種の神器

①スポーツ自転車

②ラジカセ

一眼レフカメラ

(次点:腕時計)

個人的な考えなので皆に当てはまらないが、あれから40年近く経っても凌ぐものが思い当たらない。ここでは概論にとどめ個人史など各論は別記事にしたい。

【スポーツ自転車】

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自転車は小学校時代から「マイカー」の位置にある。僕らの頃は黒いボディーの5段変速のいわゆる「ジュニアスポーツ」が主流。金持ちの友達はフラッシャー付きに乗っていた。最大手ブリヂストンはデジメモ(カチカチと変速できる)やスピードメーターが標準装備。ほかにミヤタやマルイシなどがリトラクタブルライトやディスクブレーキ装備を出していた。26インチが主流だったが20〜22インチでアップハンドルのミニサイクルというのもあった。友達のを借りたら軽くて乗りやすかった。

こうした自転車で徒党を組んでどこまでも行った。1978年6月12日、宮城県沖地震のときは隣町の柳の目バッティングセンターにいた。翌日学校で先生が「昨日の地震すごかったね。どこにいたの?」と訊かれたが雲雀野公園にいたとウソをついた。あんな遠くまで行ってたと言ったらゲンコツ食らう。あれは本当に怖かった。地面が大きく揺れ、縦型のゲーム機(パチンコ台など)がバタバタ倒れ、バッセンのネット支柱がユラユラと揺れた。自転車に飛び乗り大急ぎで門脇に帰った。

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中学に上がるとフラッシャー組はブリヂストンのロードマンに次々乗り換えた。ドロップハンドルのレーサータイプで大人気だったが禁止されていたのでアップハンドルに換えていた。ロードマンは一億総中流的な自転車。車で言えばマークIIか。バカ売れしたのでミヤタはカリフォルニアロード、丸石はロードエース、富士はフェザーコンポと同じ価格49800円で追随した。ジャンプやサンデーなど少年誌には必ずこの手のスポーツ車が広告を出していた。ひねくれ者の僕はロードマンに手を出さなかった。それは各論で。

【ラジカセ】

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中学生になると歌謡曲から洋楽ポップスやニューミュージックに好みが変化する。それとともに「何を聴くか」もさることながら「何で聴くか」も重要になってくる。ハードウェアのグレードアップ(差別化)によって自身の音楽好きをアピールするわけだ。

また自分の部屋を持つことも多く、そこで音楽を聴くとなればラジカセが最も効率的だ。リビングや応接間にあるステレオでFMラジオやレコードを録音したカセットテープを自室に持ち込んで聴くのが中学生流。ラジカセはマストアイテムだった。

衝撃的だったのはパイオニアのラジカセシリーズ「ランナウェイ」のTVCMだ。大陸横断列車Amtrakの映像が遥かな国アメリカを想起させる。黒人コーラスを真似たシャネルズ(のちにラッツ&スターに改名)の同名デビュー曲に乗せて、洒落たデザインのラジカセがテレビの画面に大映しになった。世の中高生男子は誰しもランナウェイを「欲しい!」と思っただろう。

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自転車に比べるとラジカセのほうが多士済々だ。パイオニアのほか、ソニー、ナショナル、東芝、日立、サンヨー、ビクター、シャープ、アイワなど電機メーカーが性能やデザインを競った。電機屋でもらえるカタログでスピーカーの直径や出力ワット数などを調べるだけでも楽しかった。部活でどのモデルを買ったかを互いに自慢し合った。「俺のはダブルカセットだぜ」「こっちはフルロジックボタンだぞ」とかね。だがラジカセの狂熱は短命で、別記事に書いたフルサイズコンポに興味が移っていく。

一眼レフカメラ

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カメラへの感心は実はもっと後かも知れない。自転車や音楽は普遍的だが、写真を撮るとなると趣味が入るのでみんなが買っていたと思えない。その意味では次点の腕時計のほうが普遍的だが、時計への執着はこれまた差があり、どちらを3位にするか難しい。ここは自分が憧れたカメラのほうにする。

家にはカメラがあったが、いわゆるレンジファインダーでKONICAだったと思う。いじるところが少なく扱いやすいのだが、中坊としてはいじり甲斐のあるマシンがほしいわけだ。欲しくなったキッカケを思い出せないが、その頃のトピックでいうとTVドラマ「池中玄太80キロ」で通信社カメラマン役の西田敏行キヤノン(キャノンではない)のA-1で北海道の丹頂鶴をバシャバシャ撮るのが「こういう世界があるのか」と面白かった。あのドラマ(土曜夜の日テレグランド劇場枠)は、高性能一眼レフの購買欲を訴求した一面があるだろう。個人的には、当時の(今も)親友Fがその廉価版AE-1を持っていたのも刺激になった(大人びた彼を追いかけていたフシがある)。

カメラを持ったところで撮りたいものがあるわけでなく、高校に上がるまでに欲しい(買える)モデルをじっくり決めようと考えた。当時はAE-1を筆頭にプログラムAEシャッタースピード優先機に人気が集中していたが高くて買えない。入門者向けの絞り優先機しか選択肢はなかった。東京のように中古カメラ市場が身近でなくディスカウントショップもない。情報が乏しいながらも密かに物欲を裡に育てていた。

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一眼レフのTVCMといえばミノルタX-7の宮崎美子が有名だが、あれを見てカメラがほしいとは思わなかった。ただエロいのが好きで見ていた(笑)。←ここが中坊の中坊たるゆえん

【次点:腕時計】

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この中では自転車の次に物欲をそそられた商品だろう。中学に上がると「学校に腕時計をしていってよい」という校則が拍車をかけた。入学式以後、同級生の左手が気になって仕方がなかった。腕時計なんかなくても校舎のいたるところに時計があるから不便はないが、物欲に弱い中坊は大人のアクセサリーのトリコになった。

ちょうど入学した時期(79年)にシチズンが衝撃的モデルを出した。デジアナと呼ばれる文字と針の両方を装備した腕時計だ。当然ながら自転車フラッシャー組(富裕層)はこのデジアナを左腕にはめていた。今で言ったらクロノグラフだが、不思議と羨ましいとは思わなかった(フラッシャーもそうだが)。要は家が貧乏だと成金趣味に反発したいがために、質素でシンプルな志向に走るのではなかろうか。

前述の親友FはセイコーのタイプIIをしていた。深いグリーンの文字盤のシンプルなクォーツ。まぁ無難な選択。一方で隣の小学校から進級してきた同級生の腕時計に度肝を抜かれた。Iはセイコーのダイバーズウォッチ(プロユース)、YはなんとRADOのゴールデンホースだった。聞けばおじいちゃんのお下がりだという。見るからにゴージャスで田舎の中学生がする時計にはとても見えない。ちなみに俺は今それをはめている。ヤフオクで1万円くらい。正確でよい時計。Iの時計は「ダイバーズウォッチ」なる存在を初めて教えてもらった。中学生の華奢な腕に似合わない無骨なデザインに魅せられた。いつかこんな時計が似合う男になりたいと思ったような思わなかったような。


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以上「三種の神器」、賛同してもらえるかわからないが、中学生の他愛ない物欲には賛同してもらえるかもしれない。雑誌の広告やテレビCMなど、いたるところに「大人の階段」が用意されていた。今もそれをのんびり昇っているような気がする。

奈良に行ってきた


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7月の「大人の修学旅行 京都篇」に続く第二弾。2泊3日の奈良行。相変わらずむちゃくちゃな移動経路となった。


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11/19 山小屋営業のため東京の職場から石巻へ(404km)

11/20 昼の営業を終えて仙台空港へ(65km)〜ピーチ便で関西空港へ(910km)〜新今宮(41km)

11/21 野暮用で岡山備前へ(224km)〜大阪〜なんば〜近鉄奈良(254km)

11/22 奈良市内観光①

11/23 奈良市内観光②〜近鉄奈良〜京都〜品川〜調布(575km)…計2163km


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思い出深いのは初日のスナック。岡山から奈良までゆらゆら到着、チェックイン後にホテルで近所の銭湯を教えてもらい、さぁどこかスナックはないかとググったらホテルにわりと近いところに見つけた。ほかに3名。一人はすぐ帰ったが残り二人(東京のカメラマンさんとそのご友人)と仲良くなり次の店へ。そのバーもいい店だった。翌日も奈良泊だと言ったら明日も飲もうと誘われた(結局流れてしまったが)。楽しい夜だった。

翌日は朝イチでレンタカーを借りて斑鳩方面へ。以下、インスタ報告のコピペ。

【大人の修学旅行 11/22⑴】
法隆寺
日本初の世界遺産。救世観音特別公開中
薬師寺
東塔修復完了記念玄奘三蔵院特別公開中
唐招提寺
東山魁夷作障壁画のある御影堂は修復中につき非公開。土砂降り
飛鳥寺
日本最古の仏教寺院、最古の仏像、蘇我入鹿首塚
石舞台古墳
巨大な横穴式石室


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【大人の修学旅行 11/23⑴】
興福寺
五重塔特別公開中。奈良公園とは興福寺から春日山原生林まで丘陵一帯だとは…
志賀直哉旧居
石巻生まれの文豪は今年没後50年
③新薬師寺
日本最古の十二神将。午年の守護神珊底羅大将の人形を買いました。山小屋に置きます


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春日大社
七五三参詣で賑わっていた
東大寺大仏殿
とにかくデカい。大和国分寺だったと初めて知った
東大寺二月堂
南都が一望できる舞台とお水取りの伝統が素晴らしい


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【大人の修学旅行 11/23⑵】
奈良国立博物館
吉野の金峯山寺仁王門金剛力士像特別公開中。新館は展示替えのため休館
奈良県立美術館
展示替えのため休館。奈良市美術館も


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元興寺
ゲンコウジではなくガンゴウジ。飛鳥寺の奈良移転先。日本最古の瓦葺き
④奈良漬の山崎屋
生姜の奈良漬をお土産に買いました
⑤わらび餅の中谷堂
大阪在住歴女友人オススメ
⑥大西湯
最後にひとっ風呂。一昨日はならまちの敷島温泉へ。京都もそうだったが関西の銭湯は熱い!


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総じて特別公開が多く、得した気分。思い切って行ってよかった。2日目は物分かりの悪いバーマスターと喧嘩して気分が悪かったが、奈良のせいじゃない。今回1回で終わらせるつもりは、ない。次回また奈良行のチャンスを狙いたい。