長谷川きよし御大の面前で
1997年だったろうか。社長とケンカして会社を辞めることになり、することもないので石巻に帰った頃のこと。両親が南浜町に家を建てたばかりで、壁紙の糊などの化学薬品が持病の喘息発作を誘発して、吸引器のサルタノールが欠かせなかったのを覚えている。定年退職した親父の退職金を元手に慣れ親しんだ門脇町(旧町名:後町)から数百メートルのところに家が建ち、近所とはいえ知り合いもなく、帰省する身としてはひたすら居心地の悪い(田舎言葉で「いずい」)ことこの上なかった。
部屋でゴロゴロしていたら西光寺のS子から「今夜空いてる? うちに長谷川きよしが来るよ」と電話があった。へー。盲目のシャンソン歌手。和製ホセ・フェリシアーノ。私淑していた作家Hさんのカラオケに毎度つき合わされてたから「黒の舟唄」「別れのサンバ」はお手の物だ。檀家は無料だというので行くことにした。
寺の青年部が主催するコンサートは西光寺の名物となっていたが、たまたま青年部に長谷川きよしの大ファンがいて招聘に漕ぎつけたという。阿弥陀如来坐像が鎮座する本堂をステージ代わりに、ベースやピアノのバンドを従えて長谷川きよし御大のライブを堪能した。伸びやかなヴォーカルと超絶スパニッシュギターに酔いしれた。
(2012年に西光寺本堂で行われたゴスペルコンサート)
ライブ後の打ち上げにも参加することになった。酒盛りで賑わううちに、その場に居合わせた人間が順次自己紹介、「石巻出身作家Hさんのアシスタントをやっていて長谷川さんの歌を二人でよく歌っております」などと話したと思う。あとのほうで、ライブを企画した長谷川ファンがクラシックギターを持参していて「別れのサンバ」を弾くと言う。誰か歌ってくれないかとなり、S子があろうことか「ここにいるよ」と俺を指差した。バッカヤロウ、本人の前であの名曲を歌えるわけがないだろが。みんなの拍手で後に退けず、もうどうにでもなれと空のビール瓶を握ってマイク代わりにした。
♫チャッチャーチャラッチャラッチャー…軽快なリズムでギターの前奏が始まり、「なーーんにもーーおーーもわずーー なーーみだもーーながさずー」とAメロを歌い、「きっとーーわたしをーーつよくーだくとっきーもー」とBメロを歌い、さぁここからサビで盛り上がろうというところでギターがトチった。「ダメだー、ごめんなさい」と演奏中断。なんだよ、最後まで歌わせてくれよ、と思ったような思わなかったような(笑)。それでもみんなヤンヤと盛り上がっていた。
終わって長谷川さんのところへ行き「みっともないことしてすみません」と謝ると、「いやいや、よかったよ。ところでHさんのアシスタントしてるって? 僕はあの人の書く文章が大好きなんだ。尊敬してる。よろしく伝えてください」と言ってくださったのがうれしかった。
幼なじみのS子に東京での暮らしぶりや仕事ぶりの片鱗を見せられたのが、ちょっとだけ誇らしく思ったような。S子の親父さん(住職)とは、少し前に旧知のHさんを囲んで3人で六本木(瀬里奈だったか?)で飲んだこともあった。理事を務める埼玉の私大の図書館にHさんの著書を寄贈したいと現金をいくらか預かっており、新刊が出ては買い、届けている報告などもした気がする。
副住職(S子の兄貴。2021年から住職)のNさんもその場にいたと思うが、当時はそれほど親しくなかったのでこの日は話した記憶がない。震災後はこの人からいろんなことを学ばせてもらった。当時の自分の羅針盤がHさんだとするなら、震災後はNさんだったと言っても過言ではない。
宴が終わり、寺のある門脇から新しい家のある南浜まで慣れない道を一人トボトボ歩いて帰った。「長谷川きよしの前で歌っちまったよ」と今しがた起きたことを反芻したが、親父とお袋には恥ずかしくて言えなかった。それでも人生のなかで数少ないハイライトシーンがあるとするなら、この日の出来事だと今も断言できる。孫子の代まで語り伝えたいほどだ。
Hさんとは、その後も何度かカラオケをした。「長谷川きよしの前で歌っただと? なんて破廉恥な」と呆れられてしまった。たぶん羨ましかったのだろう(笑)。「中上健次の前で歌ったときは緊張したなぁ」とか言ってたっけ。文学者とカラオケについて、誰か書いていないだろうか。Hさんとのカラオケ体験について、そのうち機会があれば書いてみたい。
さて、今夜もどこかの店で歌っちゃおうかな。