港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

原付バイクがほしい(追記あり)

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キッカケは忘れたが、ホンダカブやスズキバーディーなどの原付バイクがヤフオクウォッチリストに数台登録されている。すべて宮城県内の出品だ。片っ端からリストに入れたんだろう。石巻にバイクを置きたい。リトルカブなら車幅も狭いからアパートの階段下に置けそうだ。

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寒くなったのもあるけれど、自転車よりもバイクのほうが遠くまで移動できる。アパートに置いておけば車で帰らない時もヤマヤまでビールをケースで買いに行ける。ちょっと気晴らしにトヤケ森や上品山まで行ける。頑丈なカブでいい。できれば4速。バイパスで50km/hくらい出せるから。

原付、じつは乗ったことないんだよね。もちろん普通免許を取る時に教習所で乗ったけど、所有したことがないという意味。あ、一度だけあるか。門脇の家にいた頃、おふくろが勤め先からタダでもらってきた。スズキのTS50ハスラー

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ちょうど浪人が決まった頃で、原付免許でも取るかと山下のホンダで講習を受けた。講師が門脇5丁目の桜井輪業の親父さんだった。同級生のお父さん。津波で亡くなったと聞いた。南無阿弥陀仏

免許を取るには仙台の七北田まで行かなきゃいけないのだが、結局行きそびれて期限が切れた。とても後悔している。あの時、原付免許取ってりゃあのハスラーを東京まで持って行けたのに。そしたらだいぶ違う学生生活になっていた(バイク免許は社会人になってから取った)。

時効だから言うが、実は夜中にこっそりハスラーを無免許で乗り回していた。浪人中のストレス解消(と言えばカッコつくけれど違うだろうな)。雲雀野海岸を50キロくらいでビーーーーンと飛ばした。都合10回くらいかな。幸いパトカーに追いかけられることもなく。

あのハスラー、カッコよかったな。いわゆるスクランブラーってやつ。オフでもなくオンでもない、70年代に流行ったタイプ。たぶんサカチョーさんが乗ってたんだろう。いま橋通りでROOTSをやってる人。そのうち本人に聞いてみよう。

【追記】

本記事を読んだ友人から「使わないスクーターでよければあげるよ」とメールがあった。うれしい。カブのイメージだったが厚意は素直に受け取りたい。年内に受け取れるかな。ケンジ、ありがとう!


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11/6(土) あの雲にまかせて

昼も坊主、夜もこのまま誰も来ないだろうなとエプロンを外したタイミングでご新規2名様ご来店。カウンターじゃなくテーブル席に座った。つまり相手しなくてよいということ。

男性がコークハイを注文したがコカコーラがないのでジンジャーハイにしてもらった。女性はトマトジュース。つまみはいぶりがっこチーズとホンコン焼きそば。先に書いておくとこれで2400円。我ながら激安だなぁ。ソフトドリンクでも500円とってよいかも。

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カップルかと思ったら友人同士らしい。お互いの恋愛相談。聞かないようにとワラワラ仕事を始めた。製氷機の水栓修理。水がポタポタ落ちるので分解して中のケレップとパッキン全部交換。レンチでギリギリと締めたら顔面シャワー。古い水道管に亀裂が入ってしまった。もう限界だ。修理しなきゃ。ブチルテープでグルグル巻きに。またポタポタしはじめた。


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二人は11時過ぎに退店。客と全くしゃべらずに終わるのは初めてかも。あちらはそういうのを求めてないからね。こういう使い方もアリですよ、山小屋は。

鍵を締めて飲みに出た。近場で済まそうと斜向かいのスナックおり姫へ。先客が帰ってからママとおしゃべり。そんなに久しぶりではなかったが結構話し込んだ。最後はかなりシリアスな話に。以下備忘録。

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確か、元新聞記者のTさんが店に来た話をしたことから始まったと思う。前にも書いたがTさんは身を乗り出して問い質してきた(10月の話)。

「いったい何を求めて山小屋を始めたの?」

さぁよくわからない。10年間の落とし前をつけたろかって気分。この11月で半年過ぎた。楽しいことは確かだけれど、ただ楽しいだけの趣味でやってるつもりもない。石巻に根を下ろす足場固め、そう言い続けてきた。何からやればよいかわからず、とりあえず店を出してみた、その程度。

山小屋が“正解”なのかはわからないーーみたいな話をTさんとしたよ。ママはTさんのバトンを受け取ったつもりになって次々と質問をぶつけてくる。

「将来、会社を辞めるとか石巻に住むとかどうするの?」

未計画。いま55歳で定年まで5年だけど、その間に定年は65歳に延びるだろう。別にうれしくない。今すぐにでも辞めたいが、会社の給料なしに店を続けられないし子供の学費もある。あと3年はこのままだろうな。

この店も自分がやるはずじゃなかった(去年8月の記事「開店 事の発端」参照)。アテにしていた先輩がドロップして、前のめりの勢いを止められず一人で引き受けた。その余勢が今に至る。

坂道を下った助走エネルギーはとっくに切れているので、あとは自力で漕いで自転車操業。壁にぶつかったら再起動できるのかしらん。できるとして、その熱源はいったい何か? 客だね。客に会いたいから。でもそれって、本当の足場固めになってるのだろうか?

「門脇の土地に店舗兼自宅を建てるという話はないの?」

かなり昔に考えたよ。あの町に灯りをともそうと兄貴と一緒に食堂でもやるかとFacebookで言い続けた。「55歳までに決断する」とまで書いた。みんな忘れてるだろう(誰も読んじゃいない)。俺も忘れてたよ。でも気づいたら55歳で店を出していた。有言実行? いやいやただの偶然。10年経って潮目を変えたいとは思ったけどね。

店ってアドバルーンなんだよ。山崎まさよしじゃないけれど「ぼくはここにいる」っていうサイン。またはクレイジーケンバンドの「俺の話を聞け」か。

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「門脇に家を建てたいなら会社にいるうちにしたら? 辞めてから銀行貸してくれるかな」

たしかにね。東京の家のこともあるしそう簡単にはいかないけれど、本気で移住するつもりならちゃんと考えなきゃ。店に注ぎ込んでる金をそっち(家)に回せばできない話じゃなかったかも。仮にそうなら、店を始めたのは失敗ってことになる。金ばかり出て行って将来の展望が描けない。うわヤバいなそれは。

誰に相談すればよいのだろう? 門脇の土地は、将来は娘のもの。更地で残すのか上物付きか。兄貴の老後のこともあるし早く家を建てたい。店なんかやってる場合じゃなかったかもな。宝くじが当たるのを待つしかないか。

時計を見たら午前3時を回っていた。4時間も話したのか。帰ろう。

「歌ってもらいたい歌があったのにな。『出航(さすらい)』」

あー寺尾聰の。前に歌ったよね。でも眠いから今日は帰る。おやすみ。

♫どんな恋だって 色あせ崩れゆく
いつの日かこの俺も 命尽き果てるなら
あの雲にまかせて 遥かに彷徨い歩く
生きてゆく道連れは 夜明けの風さ

https://youtu.be/sExHUmfHy0k

10/31(日) 山小屋は意識高い系?

部外者の出る幕ではないが、元アイドルの自民党公認候補が地元選出のベテラン議員に挑んだ今回の総選挙……

 

ストォーーーーップ! 

 

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……てなことを書きたがるから、山小屋はいつも閑散としている、そう思いはじめている今日この頃。飲み屋だぞ。NPOや勉強会ではないのだ。なぜ高邁ぶる? 個人Facebookでもそうだ。震災以後、これだけ故郷を想っているのだぞと石巻愛を振りかざす。選挙にでも出るつもりか。

インスタも、何だあれは。本や美術の話ばかり。ゴタクを並べたて、客を選別していないか? みろ、始めた頃に来てくれていた地元客が誰も来なくなったじゃないか。「意識高い系の客が集まる飲み屋はここですか?」と言われてるに決まってる。硬い話ばかりする店で、いったい誰が飲みたがるのか? もちろん政治の話はご法度のつもりだが、石巻の話題にキャッチアップしたいばかりについ口や筆が滑る。スマホだから指か。

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2.0や本棚の人たちが日常的に使ってくれたり、石巻を訪れたマスコミや大学先生方が面白がってくれたりするのは本当にありがたい。でもそんな店にしたいと思って始めたわけじゃない。小中高の同級生たちが、門脇町南浜町の人たちが、気軽に集える場を作りたかっただけだ。

どこで道を間違えたか? これは自分が悪いのだが、震災後10年、この近辺で飲み歩いてきた中で、親しくなったママやマスターに東京の名刺を渡していた。その俺が山小屋を始めた。いつの間にか「ハッピーエンドの下にブックバーが出来るらしい」「山小屋のマスターは新聞記者らしい(←誰かと勘違いしている)」という噂が広まっていた。何だブックバーって? 飲み屋で本読んで楽しいのか?

ぜんぶ俺が配った名刺のせいだ。オープンする前から「元門脇住民が始める店」ではなくなっていた。軌道修正も面倒くさいし、音楽で売ろうにも2階のハッピーエンドとかぶるしで、もうブックバーでいいやと開き直った。本棚をつくって古本を並べ、壁には絵や版画をかけた。


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「いい雰囲気ね」と言ってくれる客も多い。こんな店が欲しかったとも。自分なりに「山小屋」のイメージを積み上げ、趣味やキャラをある程度押し出して、俺丸出しの店になったことは、なった。でもそれは、入りやすい店なのだろうか? 好事家が集う、常連色の強い店になっちゃいないだろうか?

近所のスナックママからも「私なんかが行っていいの?って思う」と言われた。ちょっとショックだった。無味無臭なバーよりはクセの強いバーのほうがいいに決まってるけれど、「あそこは意識高い系の人が飲む店」と敬遠されては困る。そもそも俺が問題だ。変わり者のマスターと思われてはいないか?

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インスタの流れを変えよう。こんな「文化人でござい」みたいな臭い投稿は自粛。すぐにキャラ変できないとは思うが、徐々に変えていこう。

10/24(日) アナログレコード撤退

ヤフオクハードオフで買ったレコードプレイヤー(ターンテーブル)を何台か、店に持ち込んでいた。もちろんお気に入りのアナログレコードも。

アナログレコードがかけられる店だからといって、音楽をすべてレコードプレイヤーで、ということにはならない。好きな調度品で店を飾りたかっただけのことだ。

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開店して半年となるこの10月末、レコードプレイヤーを撤去することにした。山小屋でレコードをかけることは、しばらくない。いや二度とか。それはわからない。今後の情勢次第。アナログレコードがかけられないからといって、山小屋の価値が下がるわけではない。そう思いたい。

かけたい人はどうぞレコードバーに行ってくれ。確か近くにあったと思うぞ。

10/17(日) 走りながらゴールを捜す

前日の土曜、カフェタイムを早めに切り上げて門脇に向かった。震災伝承施設「MEET門脇」で、青池憲司監督の映画「3月11日を生きて」上映会とトークに参加した。2012年にどこかで上映されたのを見たことがあり、トークだけ聞いて帰ろうと思ったが、同じことを考えて映画を見ないで帰る人が多く、これでは寂しくなるなと残ることにした。

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改めて見ると震災と津波の恐ろしさが伝わるとともに、学校管理下にいる子供たちを一人たりとも犠牲にさせてはいけないという強い使命感で的確に行動した門脇小教職員の先生方に感服するしかない。…なんて書くと大川小学校への当てつけに読めるかもしれないがそんなつもりは毛頭ない。学校それぞれの地勢で現場判断は異なるのだ。

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門脇小は雲雀野海岸を目の前にした学校なので、地震津波がワンセットになっており、すぐに日和山に避難する習慣が学校全体に備わっていた。映画はそれを伝えている。ただ映像が震災後に撮った関係者インタビューだけで津波の映像がなく(敢えて入れなかったとのこと)、映画化よりも書籍化・言語化に向く素材だったかもしれない。

開演前にロビーで声をかけられた。石巻日日新聞の記者だったTさんだ。25年来のおつきあい。最後に会ったのは2015年頃に東京のボランティア団体が企画した「6枚の壁新聞」の話を聞く会だろうか。店の名刺を渡したら驚いて「素晴らしい。ぜひ行きたい」と喜んでくれた。

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門脇の人たちも大勢来ていた。みらいサポートのAさんから「明日何時に東京さ帰んの? 昼に芋煮会やっからございん」と誘われた。あーそれで青池監督がいるわけか。毎年、映画(ほかに2本作り門脇三部作になっている)の同窓会のような飲み会をしているのだ。門脇の夏祭りにはたまに参加するが芋煮会は初めてだ。東京に帰るバスを調べたら17時発(23時新宿着)があったのでそれで帰ればよい。外に出たらさすがにヒンヤリしていた。車のヘッドライトで照らされた門脇小校舎にドキリとした。

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翌朝10時に駅裏のナリサワギャラリーの浅井元義展へ。そこから自転車で門脇まで。ちょうど11時半に着いたが正規の参加者ではないので入りづらい。門脇東復興公営住宅前を何度か往復して、Aさんか誰かに見つけられて呼ばれたいのだが誰も気づいてくれない。仕方なく自分から入ったら、元お向かいのWさんがいて「おー来た来た」と言われ、受付をしていた奥さんのY子さんが中まで招じ入れてくれた。

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青池監督も来ていて隣に座らせてもらった。町内会長の本間さんが鹿児島の焼酎があるよと言うのでもらおうとしたら横から「誰だか知らんけどまぁ飲め」と日本酒をなみなみ注がれた。飲むとまた次の人が。「若いからたくさん飲めっぺ」。ここでは55歳は若いほうのようだ。そうするうちに短歌・俳句コンテストが始まった。あららぎに所属するWさんが選考したものと出席者での投票結果で上位入選したものをそれぞれ表彰。拍手と同時に笑い声も聞こえる。

「難しい歌だと思ったらあんだのすか? もっとわがりやすぐ作らい」

「銀賞だど? 何だべこいな俳句、誰だって作れっぺや」

楽しい。楽しすぎる。来年は俺も出そう。俳句は無理だが短歌ならちょっと腕に覚えがあるんだぞ。

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生まれ育った町内の人たちとの語らいは何物にも代え難い。芋煮は山形風の醤油味。カレーうどんも振る舞われた。

俺の家はこの門脇復興公営住宅のところに建っていた。ちょうど赤いポストのあたり。できればこの町で店をやりたかったが、いまだ復興半ば。今は立町で頑張るしかない。

13時にお開き。テーブルや椅子を片づけて退散。日本酒をさんざん飲まされフラフラだ。自転車を飲酒運転して立町へ。どうせ日曜のカフェタイムなんか誰も来ないと踏んでソファーベッドで寝ていたらコンコンとノック。昨日再会したTさんだった。仙石線の時間まで二人でコーヒーを飲みながらこれからの石巻について語った。

「昨日MEETで『店をやりながら答えを見つける』と言ってたよね。その“問い”って何なの?」

核心ではあるが問わずもがなでもあり、久しくTさんと話してなかったので、言葉を選びながらこの10年について簡単に話した。十全に伝わったとは思わないが外郭は理解してもらえたようだ。

「10年経っても石巻から若い人が減らない。去る人もいれば新しく来た人も。石巻に何かを求めている。この山小屋は、それを見つける場所になるんじゃないかな。僕にも関わらせてほしい」

ハハハ、ではTさんもカウンターの中に立ってみますか(笑)。それは冗談としても、互いにあの震災に対してそろそろ落とし前をつける頃合いだと感じはじめ模索している。Tさんは新聞社をリタイヤしてできた時間を、当時のことを書いてみたいとパソコンに日々向かっているらしい。「できたら僕にも読ませてください」と伝えた。

俺も書けるものなら書きたい。書けば絶対に嘘になる。辻褄、整合、正当化、美化などあらゆる力学が働いて、本当のことなど書けるわけがない。Tさんみたいに新聞記者という社会的立場があるわけでもない。そもそも直接被災していない。“お呼びでない”のだ。

たとえば門脇MEETの語り部も、震災からの復興も、俺の出る幕じゃない。心のどこかで「俺の話を聞け」と思っているが、誰も聞いちゃくれない。だから店をやってるのかもしれない。カウンターの中に立ち、客を聴衆に見立てて大芝居を打つ、それがしたかったのかもな。山小屋劇場の大ボラ吹き野郎。

Tさんにはそこまで言えなかった。仙石線の出発時刻が迫り食器をワラワラと片づけて一緒に店を出た。駅で青池監督と待ち合わせだと言う。

「こんどは夜に山小屋に来てくださいね」

Tさんに嘘をすぐに見抜かれるかもしれないが、それでも構わない。

10/16(土) マリーが石巻にやって来た

東京狛江(こまえ)のスナック「ジュリー」のママが、仙台のエレクトロンホール「沢田研二ソロ活動50周年記念コンサート」参戦からの来石。7月にりんごママと二人で来たのに続いて二度目だ。昨夜は門小同級生3人が偶然勢揃いしたところへ、松ばるで食事を終えてきたジュリーママ(以下マリー。自称)も加わって、沢田研二談義で盛り上がった。僕ら世代にとってジュリーは、同時代を代表するスターそのものだった。

小学生の頃、今はなき石巻市民会館でコンサートをしたジュリーがその日の夜のTBS「ザ・ベストテン」(21時放送開始)にチャートイン、日和山の鹿嶋御児神社から生中継した話をマリーに自慢げに聞かせてやった。

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同級生たちはその場にいたそうだ。テレビを見ていた僕は、日和山からの中継が始まると知り、門脇町の家を飛び出し道路に出て、すぐ前にある日和山から聞こえてくるジュリーの美声に酔い痴れた。あれは「カサブランカダンディー」だったと思う。スポットライトを浴びた大鳥居が神々しく輝くのを見て、「すぐ近くに昭和の大スターがいるんだ」と興奮したものだ。1979年、小6の冬。もう40年以上前の話だ。マリーも楽しそうに話を聴いていた。
閉店後、前回の来石で仲良くなった駅前アゲインに一緒に向かった。同世代ママと再会を果たし、7月に入荷リクエストをしていたたアニソン(パタリロクックロビン音頭」)をかけてもらい大感激。その後も二人で70年代80年代歌謡曲のリクエスト合戦で盛り上がった(もう一人いたっけw)。


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マリーは日曜まで2泊して、松ばるをはじめ、おり姫、ハッピーエンド、RED、六文銭と、この古井戸通り界隈をほとんど回り、「どこで何を食べて美味い。石巻レベル高すぎてヤバい」と感心していた。自分の街をそこまで高評価しないけれど、彼女もジュリー追っかけで全国を旅しており、店でも心づくしの料理を食べさせてくれるので、嘘ではないだろう。旅先で食す料理と酒は格別なのだろう。

自分ではグルメのつもりはないが、石巻は「言うほど美味いかな?」という感覚が強い。石巻に居すぎて舌が鈍感になったのかもしれない。心残りは、大王(ターワン)に連れて行けなかったことだ。「日本一うまいタンメンを食わせてやる」と豪語したその日に…。※7/17ブログ参照

最後は隣のbugに連れて行った。店をやる醍醐味と不安ついて語った。ユースケ君も15年やっても不安は消えないとのこと。そんなもんなんだな。ホテルまで送って別れた。明日早く石巻を発ちジュリー横浜ライブに参戦するという。石巻で会うのはこれが最後かもしれないな。日和山や南浜町に連れて行けなかったけれど、もういいだろう。「大津波で壊滅した街」ではなく「食のレベルが高い街」でいいじゃないか。

 

アナログレコードのこと〜平成篇〜

【9/16承前】大学3年の冬、昭和から平成に元号が変わった。たいして勉強もせず、ゼミやサークル活動に明け暮れた。週1枚ペースで買い続けたレコードは200枚ほどになっただろうか。

この頃バイブル(レコード参考文献)にしていたのは「The Illustrated Rock Handbook」という洋書だった。大学1年のときに池袋西口芳林堂書店洋書コーナーで買い、穴が空くほど読んだ。

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ミュージシャンやグループの名前を記憶に叩き込み、中古レコード店で見つけた未知のアーティストをそれと照らし合わせて購入するというのが当時の購入スタイル。よって200枚のコレクションは体系的になりようもなく、重箱の隅にある米粒の寄せ集めだったが、自分にとってそれはロックという大きな氷山の一角であり、その遥か下方に巨大なロック音楽が埋もれているイメージだった。ポピュラーで手に入りやすい音源は買わずにFMで聴けばよく、ここで買わねば一生聴けないであろう音源(そんなことはないのだが)ばかり買っていた。この本はそういう志向にとてもマッチしていた。グループのメンバー変遷を家系図的にまとめたファミリーツリーも楽しかった。

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4年の5月頃、学内を歩いているとゼミの先輩(院生)に声をかけられた。

「昨日が卒論テーマ提出期限だったけどお前の出ていなかったぞ」

やっちまった。単位を落とした。これで卒業できなくなった。卒論を書かないと卒業できないような単位の取り方をしていた。そうしなければ卒論から逃げるだろうと自分を戒めるためだった(卒論を出さずとも卒業できる学科にいた)。まさに「自分の首を絞めた」わけだ。

これで就職活動が遠のいた。親に何と言おう? 仕送りも止めないと。何より今の生活を改めなければ。まずは2年進級時に退寮した寮に戻ることにした。前から戻りたかったが同室だった先輩に「出戻りは嫌いだ」と言われて遠慮していた。その先輩もいなくなり(中退)、最上級生だったので戻りやすかった(もちろん留年を繰り返している先輩もウジャウジャいた)。臨時の寮生大会を開いてもらい「恥ずかしながら帰ってまいりました」と頭を下げた。

その後は生活費を切り詰め仕送りも止めた。塾講師や家庭教師で糊口をしのぎ、寮では退寮した引け目を払拭すべく各種委員会に入って新入寮生並みに働いた。ちょうど食堂のオヤジさんが定年退職になり乙種公務員は欠員補充しないと決めた大学当局に食堂存続を求める交渉が激化するなか、自主入寮選考(寮生が新入寮生を選考する)までもが争点化し、学内デモやビラ撒き、教室討論会を繰り返した。寮生大会が毎晩のように行われ、寝ぼけマナコで大学に通い、1年生と席を並べて一般教養を受ける毎日でレコードどころでなくなった。当時の多忙ぶりを示す忘れられない一日がある。

6時半 起床

7時半 大学正門集合、ビラ撒き

8時半〜 1・2限出席

12時 ゼミレポーター会議出席

13時 3限出席

15時 大東流合気柔術稽古(小平の佐川道場)

18時 塾講師バイト(新所沢)

21時 帰寮。風呂掃除

22時半 寮の会議出席

25時 レポート作成

27時 就寝(マージャンだったか?)

寮運動とバイトで忙しかったが、卒業したい一心で単位取得と就職活動はできる限りやった。単位数でいうと、2年修了時に進級ギリギリの62単位で、3〜4年の2年間で教育実習含めて20前後、5年生の1年間で50単位は取っただろうか。お尻に火がつかないとやれない性格なのだ。

寮運動に明け暮れる姿を見て、当時付き合っていた彼女から「あと1年留年は確実」と見られていたらしいがギリギリ踏みとどまった。卒論テーマも「柴田翔研究」で提出した。

6月頃から就職活動が本格化した。出版や新聞など文字メディアに進みたくて東京に来たはずが、音楽産業ばかりを受けた。やはりバブルの影響なのだろう。「好きなことを仕事にできる」と勘違いした。FMとレコードに世話になっていたので、その方面ばかりを受けた。

FM東京(前年にTFMにCI変更したが正社名は今も株式会社エフエム東京

CBSソニー(現ソニーミュージックエンターテイメント)

・ポリドール(現ユニバーサルミュージック

ワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック

東芝EMI(現ユニバーサル傘下)

・BMGビクター(現ソニー傘下)

音楽之友社

シンコーミュージック

レコード会社は洋楽系(外資系)に絞り、テイチク、キング、ポニーキャニオンなど邦楽系・演歌系は受けなかった。開局したばかりのJ-Waveも考えたがエアチェック向きの局ではなかった。上記はすべて朝日新聞の募集広告に載ったもの。当時はそれしか情報源がなかった。5月頃から日曜の朝刊に新卒対象の社員募集記事が見開きでびっしり掲載される。そういう時代だった。これはと思うものを切り抜き、履歴書を片っ端から送った。当時はエントリーシートなるものはなく、広告に作文テーマが書いてあり、原稿用紙に手書きで書いて同封した。

書類審査を通過すれば筆記試験。FM東京は池袋サンシャインビルの大会議室、CBSソニーは市ヶ谷アルカディアの大ホールなど、一度に数百人が筆記に臨んだ。あれは壮観だった。隣に國學院応援団と思われる学ランに下駄ばきの蛮カラ学生が座ったり、受けたあとで周りに声をかけてお茶しに行って、どこを受けた、どこがどうだった、と情報交換したりした。

書類選考や筆記試験で落とされることはなく、ほとんどの会社で二次面接に進めたが、うまくいかない場面もあった。市ヶ谷(百恵ビル)のCBSソニーは、二次面接の電話連絡を受けた寮後輩の伝言ミスで行けなかった(電話が来たのを後で知った)。神保町のシンコーミュージックはサークル(大東流合気柔術)の夏合宿で志賀高原に行き、打ち上げ後に夜行列車で東京に戻るはずが酔っ払って寝てしまい完全にすっぽかした。あの時は連絡もせずごめんなさい(それくらい売り手市場で学生優位だった)。

溜池の東芝EMIは途中から経理の面接に変わったが、辞退したか落ちたか忘れた。「これだけロックに詳しい人間が経理職なんて」と憤慨したのは確かだ。われながら傲岸だったと思う。神楽坂の音楽之友社は筆記と面接が同日で、作文テーマが「BGM」だったのは覚えているが面接は忘れた。編集者も芸大卒ばかりで社風に合わない気がした(酸っぱい葡萄)。

FM東京半蔵門)、ワーパイ(青山)、BMG(渋谷宮益坂)はいずれも最終面接で落ちた。ワーパイの社長に「あなたは話し上手か聞き上手か」と訊かれて困った。どう答えればよかったのかいまだにわからない(笑)。BMGの社長に「最近買ったCD(レコード)は何か」と訊かれ、得意げに「OsibisaとSally Oldfieldです」と答えたらドン引きされた。B'zやB.B.クイーンズを抱えるレーベルにプログレ好きは要らなかったのかも。もっと工夫・自己演出すべきだった。

第一志望のFM東京の最終面接をまったく覚えていない。カリスマ社長の後藤亘さんがいたはずだが何を訊かれたのか。待合室で総務課長Nさんと世間話をしたことは覚えている(のちに大変お世話になった)。「寮で電話に出たおじさん、面白い人だね」「あー、食堂のおやっさんです。いつも下ネタばかり言ってますがみんなから慕われてるんです」てな具合。

どこの面接でも留年した理由を訊かれた。本当のこと(卒論テーマ提出ミス)を言ってるのに嘘に聞こえてイヤだったが、だらしない性格は確かだ。最終選考で迷ったら留年した学生を落とすのは当然だ。

最終面接の数日後、FM東京のN課長から電話があり「関連会社を受けてみないか」とのことだった。「ミュージックバード」という会社でCS(通信衛星)を使った音楽専門デジタルラジオという。しかも6チャンネル、ジャンル別放送。エアチェック好きの身としてはガゼン興味を持った。開局スタッフになれるのも魅力的で一も二もなく応諾した。一般教養や作文などの筆記試験はFMで受けたのが流用され、最終面接一発勝負だった。

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面接会場はFMセンタービルに隣接するフェルテ麹町ビル(写真の左側)。総務部長Tさん(FM東京から出向。元アナウンサー)、編成部長Tさん(FM東京。クラシック番組専門)、営業部長Nさん(博報堂)、技術部長Iさん(NEC)がいた。志望動機を尋ねられても「受けろと言われたから」とは言えず、そこはなんとか形にした。たぶんエアチェック三昧の話をしたと思う。逆質問を許されたときに社名の由来※を尋ねたら、Iさんが「僕らも来たばかりでわからないんだ」と笑った。実際、大株主から出向者を集めた寄り合い所帯で、次年度に新卒を5人も採るという発想がバブルそのものだったわけだが、学生の分際でそこまで感じとることは難しかった。

※当時は通信衛星を、羽根を広げた形から鳥に喩える呼び方があった(三菱商事系のスーパーバードなど)。ミュージックバード伊藤忠三井物産系の通信衛星JC-SAT2号を使っていたので「バード」は不適当なのだが。

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ほかにポリドール(池尻大橋)だけが最終面接に進んでいた。最後は面接というより入社意志確認で、人事部長・総務部長と面談した。人事部長が、卒論に選んだ柴田翔を愛読しているとわかり二人で盛り上がっている横で、総務部長がキョトンとしていた。

結果、両社とも内定を勝ち取ったがさすがに迷った。新しいラジオ放送局立ち上げか、伝統ある外資系レコード会社か。いや、本当に迷ったのは半蔵門か池尻大橋か。卒業後は寮のある西武池袋線沿いに住みたいと思っていたので(マージャンに通いたい)、有楽町線で麹町に出れば半蔵門まで徒歩で通える。東急線はなじみがなく家賃も高い、ということでミュージックバードを選んだ。

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池尻大橋まで内定辞退のお詫びに行き、帰りに池袋シネマロサで映画を観た。ホドロフスキーの「サンタ・サングレ」の残虐な映像に気を失いそうになったが、途中で出ることもなく、最後まで見通した。ロールテロップが流れた刹那「長い就職活動がやっと終わった」と安堵した。すでに10月末になっていたと思う。当時はバブルど真ん中、「なるようになるさ」と楽天的だった。あのときポリドールを選んでいたら、レコード業界に進んでいたら、と今も時々思う。

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ミュージックバードのことはいくらでも書けるが、本章ではレコードをめぐる話題に限定する。入社後、FMセンタービルの資料室でレコードが好きなだけ借りられたのは至福だった。在職した3年間でいったい何枚借りただろうか。会社のコピー機でライナーノートや歌詞カードをコピーし、大学ノートでリストを作った。ここで初めて知ったアーティストは数知れず。Andwella、Keef Hartley、Grin、James Gangなど。なかでもHeads, Hands & Feetは忘がたい。Albert Lee率いる70年デビューの英国スワンプロック。最高だ。FMが開局した1970年前後にレコード会社の洋楽プロデューサーが売り込んだのだろう。資料室はとにかくすごい部屋で、ここで受付をして暮らしたいとさえ思った。

アパートは石神井公園にした(寮まで30分)。学生時代に買ったSONYの安いミニコンポを使っていたが、買ってすぐCDプレイヤー売り飛ばしたので依然としてCDはかけられなかった。さすがに91年ともなるとCDが基本フォーマットなので、最初のボーナス(最初はFMと同じ3ヶ月だったが開局前ということで1ヶ月に減らされた)が出てすぐに秋葉原の石丸電機に行き、PanasonicのMASHプレイヤーを買った。たまに買うCDのテープダビングやFMから借りたレコードのダビングで忙しかった。毎月給料が出ると家電量販店でカセットテープを買い込んだ。学生時代に入り浸っていた国分寺の中古レコード屋へも足が遠のき、レコードを買うことはほとんどなくなった。

通勤が池袋乗り換えになり、WAVE(池袋西武向かい)や山野楽器(PARCO)で輸入CDを買うようになった。レコファンもあっただろうか。学生時代に数十枚ほどだったCDコレクションが一気に500枚ほどに増えた。買い方は相変わらず「Rock Handbook」を参考文献にしていたが、山野楽器で「Rare Rock」というトンデモナイ本を見つけて、さらにロックの森の奥深くへ入っていった。洋書といってもほとんど私家版で、アルファベット順にアーティスト名がタイプライターで打たれたコピー製本のような簡素な作りだが、星の数でレア度を判定するユニークな本だった。

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「Maequee」「ストレンジデイズ」「クロスビート」「DIG」など和書文献も増え、珍しいだけという単純な基準で安いCDを買い漁っていた。今ある3000枚のコレクションのうち、半分以上がこの買い方で手に入れたものだ。今も聴いているかといえば、まったく聴かない(笑)。山小屋に持ってきたところで誰も喜ばないだろう。このまま娘に相続するしかない。

さて平成篇は初頭(1990年代)のエピソードのみとなった。終わりまで書けないわけではないが結婚後のことを書いても面白くない。引っ越すたびにレコードを処分し、ミッシェル・ポルナレフのLPが30枚ほど、アメリカのジャズロックバンドSPIRITのLPが同じくらい、その他手放せないレコードを残して150枚ほどに落ち着いた。

今も時々買うが、大学生になった娘と一緒に聴くために、さらに言えば彼女の子供(俺の孫)に聴かせたいと思えるレコードだけを買うようにしている。レコードもCDも、俺の偏頗な趣味を引き継いでくれる人間がいるだけでもラッキーだ。


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これは今年の9月、自分への誕生日プレゼントに買ったもの。Blodwyn Pig、Julie Driscol、John Mayall、The Alan Bown、Kokomo、Moby Grape、Muleskinner、The Electric Flag、Maria Maulder。

僕はいまここにいる。山小屋がこれからどうなるか皆目わからないが、いつか「アナログレコードのこと~令和篇~」を書きたくなったら、また。