年末なのに店を休んだ。とてもつらい理由。詳しく書けないが何か書かないとやってられん。
この言葉を30年ぶりに思い出した。大学の学生寮にいた頃に教わった、1969年東大闘争の全共闘スローガン。
連帯を求めて孤立を恐れず。
知った時はこれだけだったが、あとで後半があることを知った。冒頭だけでは意味が通らない。文の帰結がチグハグなのだ。連帯を求めるのは孤立を恐れるからなのでは? なんらかのアイロニーがあるのだろうが、60年代の激越な学生運動のメンタリティーから生まれた言葉を、平成令和の平和ボケ感覚で推し量るのはナンセンスだ。そこを無理クリ解釈するならば、ここでいう孤立を恐れずとはノンポリどもを銃後に追いやって有志の者のみ前線に出て行け、ということだろうか。そして連帯を組んでさらに前線へ進め、ということととりあえず解釈している。
寮にいた頃は意味すら理解しようとしなかった。立て看にゲバ文字でこう書けば格好がついた。70年代安保の猿真似でしかなかった。自分はアカだと言い張るためのスローガン。
そして後半部。これは実にわかりやすい。
力及ばずして倒れることを辞さないが、
力尽くさずして挫(くじ)けることを拒否する。
いうならば玉砕主義。機動隊に殴られ蹴られ両腕を後ろ手に縛られ護送車に放り込まれる美学ーーなんて言ったら諸兄氏に怒られるが、バブル前夜のうわついた時代にアカごっこをやっていた俺らの理解などその程度。寮生大会では日帝打倒、当局粉砕、闘争勝利など威勢のよいゴタクを並べ立てるけれど、翌日はサークルやバイトに埋没していた。
それでも本当の「闘争」をしていた先輩もいた。といっても三里塚や山谷でデモ隊に参加するとかじゃない。うちの場合は、地域の障がい者の自立支援活動だ。大学に行かず介護(護の字はゴンベンにクサカンムリにカタカナのゴだった)に行ったり、施設のバザーを手伝ったり。俺も何度か障がい者介護に行ったがあれはキツかった。シモの処理とかね。本気でやるのは相当の覚悟が要る。障がい者支援をしたくて上京したわけではないので、義務的にボランティアシフトに参加し、進級すれば後輩に任せていた。自分のなかでそこまで介護運動にリアリティーを持てなかった。
何をどう書けばよいかわからないが、そんな寮にいた、という話。委員会や当番など面倒臭いことも多かったが総じて楽しかった。仲間もできた。卒業(卒寮)して30年経っても毎年のように集まっている。みんな偉くなったがこの飲み会だけは昔のまま。先輩後輩のタテ社会がむしろ心地よい。50歳半ばで下っ端として焼酎水割りをひたすら作る飲み会がほかにあるか。
これもまた「連帯」なのだ。それぞれの持ち場で最善を尽くし、その自負を持ち寄って盃を交わし互いに労う。甘ったるいノスタルジーかもしれないが、寮仲間と会う以上は、ある種のラディカリズムへの帰属意識が必須となる。歳をとるとともにマイルド(摩滅)にはなったが、昔はあーだったこーだったと愉快に話すには、今の怠惰な自分を棚上げするのは避けたいところ。俺はこうして頑張っている、肩を組んで屋上で寮歌を歌ったあの頃のように…。立身出世などどうでもよく、あの寮に生きた者として、自ら恥じるところのない状況で集まりたい。
このコロナ禍で、一部寮友にそれが不可能になっている実情をまったく知らなかった。会社を解雇され、再就職もままならず、既往症を抱え、ローンに苦しみ、友人との連絡も途絶え…。一番仲のよかった奴が、だ。俺はといえば、会社は未曾有の好景気(巣ごもり需要)。プライベートでは山小屋の準備や運営にかかり切り、リア充を満喫して周囲が見えなくなっていた。仲間のことを気遣うことなく、元気にやってるものと勝手に考えていた。いや、それすら思い至らなかった。自分のことしか見ていなかった。それが悔しい。恥ずかしい。
寮友の急死を経て、こんなアパシー(無関心)ではいけないと、先輩後輩に片っ端から電話してLINEグループを作った。孤立し挫折する友を二度と出してはいけない。既読がつけば安否確認にもなる。せめてそういう連帯=スクラムを組んでいたい。死んだ寮友への、せめてもの供養(はなむけ)としたい。