港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

10/17(日) 走りながらゴールを捜す

前日の土曜、カフェタイムを早めに切り上げて門脇に向かった。震災伝承施設「MEET門脇」で、青池憲司監督の映画「3月11日を生きて」上映会とトークに参加した。2012年にどこかで上映されたのを見たことがあり、トークだけ聞いて帰ろうと思ったが、同じことを考えて映画を見ないで帰る人が多く、これでは寂しくなるなと残ることにした。

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改めて見ると震災と津波の恐ろしさが伝わるとともに、学校管理下にいる子供たちを一人たりとも犠牲にさせてはいけないという強い使命感で的確に行動した門脇小教職員の先生方に感服するしかない。…なんて書くと大川小学校への当てつけに読めるかもしれないがそんなつもりは毛頭ない。学校それぞれの地勢で現場判断は異なるのだ。

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門脇小は雲雀野海岸を目の前にした学校なので、地震津波がワンセットになっており、すぐに日和山に避難する習慣が学校全体に備わっていた。映画はそれを伝えている。ただ映像が震災後に撮った関係者インタビューだけで津波の映像がなく(敢えて入れなかったとのこと)、映画化よりも書籍化・言語化に向く素材だったかもしれない。

開演前にロビーで声をかけられた。石巻日日新聞の記者だったTさんだ。25年来のおつきあい。最後に会ったのは2015年頃に東京のボランティア団体が企画した「6枚の壁新聞」の話を聞く会だろうか。店の名刺を渡したら驚いて「素晴らしい。ぜひ行きたい」と喜んでくれた。

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門脇の人たちも大勢来ていた。みらいサポートのAさんから「明日何時に東京さ帰んの? 昼に芋煮会やっからございん」と誘われた。あーそれで青池監督がいるわけか。毎年、映画(ほかに2本作り門脇三部作になっている)の同窓会のような飲み会をしているのだ。門脇の夏祭りにはたまに参加するが芋煮会は初めてだ。東京に帰るバスを調べたら17時発(23時新宿着)があったのでそれで帰ればよい。外に出たらさすがにヒンヤリしていた。車のヘッドライトで照らされた門脇小校舎にドキリとした。

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翌朝10時に駅裏のナリサワギャラリーの浅井元義展へ。そこから自転車で門脇まで。ちょうど11時半に着いたが正規の参加者ではないので入りづらい。門脇東復興公営住宅前を何度か往復して、Aさんか誰かに見つけられて呼ばれたいのだが誰も気づいてくれない。仕方なく自分から入ったら、元お向かいのWさんがいて「おー来た来た」と言われ、受付をしていた奥さんのY子さんが中まで招じ入れてくれた。

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青池監督も来ていて隣に座らせてもらった。町内会長の本間さんが鹿児島の焼酎があるよと言うのでもらおうとしたら横から「誰だか知らんけどまぁ飲め」と日本酒をなみなみ注がれた。飲むとまた次の人が。「若いからたくさん飲めっぺ」。ここでは55歳は若いほうのようだ。そうするうちに短歌・俳句コンテストが始まった。あららぎに所属するWさんが選考したものと出席者での投票結果で上位入選したものをそれぞれ表彰。拍手と同時に笑い声も聞こえる。

「難しい歌だと思ったらあんだのすか? もっとわがりやすぐ作らい」

「銀賞だど? 何だべこいな俳句、誰だって作れっぺや」

楽しい。楽しすぎる。来年は俺も出そう。俳句は無理だが短歌ならちょっと腕に覚えがあるんだぞ。

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生まれ育った町内の人たちとの語らいは何物にも代え難い。芋煮は山形風の醤油味。カレーうどんも振る舞われた。

俺の家はこの門脇復興公営住宅のところに建っていた。ちょうど赤いポストのあたり。できればこの町で店をやりたかったが、いまだ復興半ば。今は立町で頑張るしかない。

13時にお開き。テーブルや椅子を片づけて退散。日本酒をさんざん飲まされフラフラだ。自転車を飲酒運転して立町へ。どうせ日曜のカフェタイムなんか誰も来ないと踏んでソファーベッドで寝ていたらコンコンとノック。昨日再会したTさんだった。仙石線の時間まで二人でコーヒーを飲みながらこれからの石巻について語った。

「昨日MEETで『店をやりながら答えを見つける』と言ってたよね。その“問い”って何なの?」

核心ではあるが問わずもがなでもあり、久しくTさんと話してなかったので、言葉を選びながらこの10年について簡単に話した。十全に伝わったとは思わないが外郭は理解してもらえたようだ。

「10年経っても石巻から若い人が減らない。去る人もいれば新しく来た人も。石巻に何かを求めている。この山小屋は、それを見つける場所になるんじゃないかな。僕にも関わらせてほしい」

ハハハ、ではTさんもカウンターの中に立ってみますか(笑)。それは冗談としても、互いにあの震災に対してそろそろ落とし前をつける頃合いだと感じはじめ模索している。Tさんは新聞社をリタイヤしてできた時間を、当時のことを書いてみたいとパソコンに日々向かっているらしい。「できたら僕にも読ませてください」と伝えた。

俺も書けるものなら書きたい。書けば絶対に嘘になる。辻褄、整合、正当化、美化などあらゆる力学が働いて、本当のことなど書けるわけがない。Tさんみたいに新聞記者という社会的立場があるわけでもない。そもそも直接被災していない。“お呼びでない”のだ。

たとえば門脇MEETの語り部も、震災からの復興も、俺の出る幕じゃない。心のどこかで「俺の話を聞け」と思っているが、誰も聞いちゃくれない。だから店をやってるのかもしれない。カウンターの中に立ち、客を聴衆に見立てて大芝居を打つ、それがしたかったのかもな。山小屋劇場の大ボラ吹き野郎。

Tさんにはそこまで言えなかった。仙石線の出発時刻が迫り食器をワラワラと片づけて一緒に店を出た。駅で青池監督と待ち合わせだと言う。

「こんどは夜に山小屋に来てくださいね」

Tさんに嘘をすぐに見抜かれるかもしれないが、それでも構わない。

10/16(土) マリーが石巻にやって来た

東京狛江(こまえ)のスナック「ジュリー」のママが、仙台のエレクトロンホール「沢田研二ソロ活動50周年記念コンサート」参戦からの来石。7月にりんごママと二人で来たのに続いて二度目だ。昨夜は門小同級生3人が偶然勢揃いしたところへ、松ばるで食事を終えてきたジュリーママ(以下マリー。自称)も加わって、沢田研二談義で盛り上がった。僕ら世代にとってジュリーは、同時代を代表するスターそのものだった。

小学生の頃、今はなき石巻市民会館でコンサートをしたジュリーがその日の夜のTBS「ザ・ベストテン」(21時放送開始)にチャートイン、日和山の鹿嶋御児神社から生中継した話をマリーに自慢げに聞かせてやった。

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同級生たちはその場にいたそうだ。テレビを見ていた僕は、日和山からの中継が始まると知り、門脇町の家を飛び出し道路に出て、すぐ前にある日和山から聞こえてくるジュリーの美声に酔い痴れた。あれは「カサブランカダンディー」だったと思う。スポットライトを浴びた大鳥居が神々しく輝くのを見て、「すぐ近くに昭和の大スターがいるんだ」と興奮したものだ。1979年、小6の冬。もう40年以上前の話だ。マリーも楽しそうに話を聴いていた。
閉店後、前回の来石で仲良くなった駅前アゲインに一緒に向かった。同世代ママと再会を果たし、7月に入荷リクエストをしていたたアニソン(パタリロクックロビン音頭」)をかけてもらい大感激。その後も二人で70年代80年代歌謡曲のリクエスト合戦で盛り上がった(もう一人いたっけw)。


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マリーは日曜まで2泊して、松ばるをはじめ、おり姫、ハッピーエンド、RED、六文銭と、この古井戸通り界隈をほとんど回り、「どこで何を食べて美味い。石巻レベル高すぎてヤバい」と感心していた。自分の街をそこまで高評価しないけれど、彼女もジュリー追っかけで全国を旅しており、店でも心づくしの料理を食べさせてくれるので、嘘ではないだろう。旅先で食す料理と酒は格別なのだろう。

自分ではグルメのつもりはないが、石巻は「言うほど美味いかな?」という感覚が強い。石巻に居すぎて舌が鈍感になったのかもしれない。心残りは、大王(ターワン)に連れて行けなかったことだ。「日本一うまいタンメンを食わせてやる」と豪語したその日に…。※7/17ブログ参照

最後は隣のbugに連れて行った。店をやる醍醐味と不安ついて語った。ユースケ君も15年やっても不安は消えないとのこと。そんなもんなんだな。ホテルまで送って別れた。明日早く石巻を発ちジュリー横浜ライブに参戦するという。石巻で会うのはこれが最後かもしれないな。日和山や南浜町に連れて行けなかったけれど、もういいだろう。「大津波で壊滅した街」ではなく「食のレベルが高い街」でいいじゃないか。

 

アナログレコードのこと〜平成篇〜

【9/16承前】大学3年の冬、昭和から平成に元号が変わった。たいして勉強もせず、ゼミやサークル活動に明け暮れた。週1枚ペースで買い続けたレコードは200枚ほどになっただろうか。

この頃バイブル(レコード参考文献)にしていたのは「The Illustrated Rock Handbook」という洋書だった。大学1年のときに池袋西口芳林堂書店洋書コーナーで買い、穴が空くほど読んだ。

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ミュージシャンやグループの名前を記憶に叩き込み、中古レコード店で見つけた未知のアーティストをそれと照らし合わせて購入するというのが当時の購入スタイル。よって200枚のコレクションは体系的になりようもなく、重箱の隅にある米粒の寄せ集めだったが、自分にとってそれはロックという大きな氷山の一角であり、その遥か下方に巨大なロック音楽が埋もれているイメージだった。ポピュラーで手に入りやすい音源は買わずにFMで聴けばよく、ここで買わねば一生聴けないであろう音源(そんなことはないのだが)ばかり買っていた。この本はそういう志向にとてもマッチしていた。グループのメンバー変遷を家系図的にまとめたファミリーツリーも楽しかった。

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4年の5月頃、学内を歩いているとゼミの先輩(院生)に声をかけられた。

「昨日が卒論テーマ提出期限だったけどお前の出ていなかったぞ」

やっちまった。単位を落とした。これで卒業できなくなった。卒論を書かないと卒業できないような単位の取り方をしていた。そうしなければ卒論から逃げるだろうと自分を戒めるためだった(卒論を出さずとも卒業できる学科にいた)。まさに「自分の首を絞めた」わけだ。

これで就職活動が遠のいた。親に何と言おう? 仕送りも止めないと。何より今の生活を改めなければ。まずは2年進級時に退寮した寮に戻ることにした。前から戻りたかったが同室だった先輩に「出戻りは嫌いだ」と言われて遠慮していた。その先輩もいなくなり(中退)、最上級生だったので戻りやすかった(もちろん留年を繰り返している先輩もウジャウジャいた)。臨時の寮生大会を開いてもらい「恥ずかしながら帰ってまいりました」と頭を下げた。

その後は生活費を切り詰め仕送りも止めた。塾講師や家庭教師で糊口をしのぎ、寮では退寮した引け目を払拭すべく各種委員会に入って新入寮生並みに働いた。ちょうど食堂のオヤジさんが定年退職になり乙種公務員は欠員補充しないと決めた大学当局に食堂存続を求める交渉が激化するなか、自主入寮選考(寮生が新入寮生を選考する)までもが争点化し、学内デモやビラ撒き、教室討論会を繰り返した。寮生大会が毎晩のように行われ、寝ぼけマナコで大学に通い、1年生と席を並べて一般教養を受ける毎日でレコードどころでなくなった。当時の多忙ぶりを示す忘れられない一日がある。

6時半 起床

7時半 大学正門集合、ビラ撒き

8時半〜 1・2限出席

12時 ゼミレポーター会議出席

13時 3限出席

15時 大東流合気柔術稽古(小平の佐川道場)

18時 塾講師バイト(新所沢)

21時 帰寮。風呂掃除

22時半 寮の会議出席

25時 レポート作成

27時 就寝(マージャンだったか?)

寮運動とバイトで忙しかったが、卒業したい一心で単位取得と就職活動はできる限りやった。単位数でいうと、2年修了時に進級ギリギリの62単位で、3〜4年の2年間で教育実習含めて20前後、5年生の1年間で50単位は取っただろうか。お尻に火がつかないとやれない性格なのだ。

寮運動に明け暮れる姿を見て、当時付き合っていた彼女から「あと1年留年は確実」と見られていたらしいがギリギリ踏みとどまった。卒論テーマも「柴田翔研究」で提出した。

6月頃から就職活動が本格化した。出版や新聞など文字メディアに進みたくて東京に来たはずが、音楽産業ばかりを受けた。やはりバブルの影響なのだろう。「好きなことを仕事にできる」と勘違いした。FMとレコードに世話になっていたので、その方面ばかりを受けた。

FM東京(前年にTFMにCI変更したが正社名は今も株式会社エフエム東京

CBSソニー(現ソニーミュージックエンターテイメント)

・ポリドール(現ユニバーサルミュージック

ワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック

東芝EMI(現ユニバーサル傘下)

・BMGビクター(現ソニー傘下)

音楽之友社

シンコーミュージック

レコード会社は洋楽系(外資系)に絞り、テイチク、キング、ポニーキャニオンなど邦楽系・演歌系は受けなかった。開局したばかりのJ-Waveも考えたがエアチェック向きの局ではなかった。上記はすべて朝日新聞の募集広告に載ったもの。当時はそれしか情報源がなかった。5月頃から日曜の朝刊に新卒対象の社員募集記事が見開きでびっしり掲載される。そういう時代だった。これはと思うものを切り抜き、履歴書を片っ端から送った。当時はエントリーシートなるものはなく、広告に作文テーマが書いてあり、原稿用紙に手書きで書いて同封した。

書類審査を通過すれば筆記試験。FM東京は池袋サンシャインビルの大会議室、CBSソニーは市ヶ谷アルカディアの大ホールなど、一度に数百人が筆記に臨んだ。あれは壮観だった。隣に國學院応援団と思われる学ランに下駄ばきの蛮カラ学生が座ったり、受けたあとで周りに声をかけてお茶しに行って、どこを受けた、どこがどうだった、と情報交換したりした。

書類選考や筆記試験で落とされることはなく、ほとんどの会社で二次面接に進めたが、うまくいかない場面もあった。市ヶ谷(百恵ビル)のCBSソニーは、二次面接の電話連絡を受けた寮後輩の伝言ミスで行けなかった(電話が来たのを後で知った)。神保町のシンコーミュージックはサークル(大東流合気柔術)の夏合宿で志賀高原に行き、打ち上げ後に夜行列車で東京に戻るはずが酔っ払って寝てしまい完全にすっぽかした。あの時は連絡もせずごめんなさい(それくらい売り手市場で学生優位だった)。

溜池の東芝EMIは途中から経理の面接に変わったが、辞退したか落ちたか忘れた。「これだけロックに詳しい人間が経理職なんて」と憤慨したのは確かだ。われながら傲岸だったと思う。神楽坂の音楽之友社は筆記と面接が同日で、作文テーマが「BGM」だったのは覚えているが面接は忘れた。編集者も芸大卒ばかりで社風に合わない気がした(酸っぱい葡萄)。

FM東京半蔵門)、ワーパイ(青山)、BMG(渋谷宮益坂)はいずれも最終面接で落ちた。ワーパイの社長に「あなたは話し上手か聞き上手か」と訊かれて困った。どう答えればよかったのかいまだにわからない(笑)。BMGの社長に「最近買ったCD(レコード)は何か」と訊かれ、得意げに「OsibisaとSally Oldfieldです」と答えたらドン引きされた。B'zやB.B.クイーンズを抱えるレーベルにプログレ好きは要らなかったのかも。もっと工夫・自己演出すべきだった。

第一志望のFM東京の最終面接をまったく覚えていない。カリスマ社長の後藤亘さんがいたはずだが何を訊かれたのか。待合室で総務課長Nさんと世間話をしたことは覚えている(のちに大変お世話になった)。「寮で電話に出たおじさん、面白い人だね」「あー、食堂のおやっさんです。いつも下ネタばかり言ってますがみんなから慕われてるんです」てな具合。

どこの面接でも留年した理由を訊かれた。本当のこと(卒論テーマ提出ミス)を言ってるのに嘘に聞こえてイヤだったが、だらしない性格は確かだ。最終選考で迷ったら留年した学生を落とすのは当然だ。

最終面接の数日後、FM東京のN課長から電話があり「関連会社を受けてみないか」とのことだった。「ミュージックバード」という会社でCS(通信衛星)を使った音楽専門デジタルラジオという。しかも6チャンネル、ジャンル別放送。エアチェック好きの身としてはガゼン興味を持った。開局スタッフになれるのも魅力的で一も二もなく応諾した。一般教養や作文などの筆記試験はFMで受けたのが流用され、最終面接一発勝負だった。

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面接会場はFMセンタービルに隣接するフェルテ麹町ビル(写真の左側)。総務部長Tさん(FM東京から出向。元アナウンサー)、編成部長Tさん(FM東京。クラシック番組専門)、営業部長Nさん(博報堂)、技術部長Iさん(NEC)がいた。志望動機を尋ねられても「受けろと言われたから」とは言えず、そこはなんとか形にした。たぶんエアチェック三昧の話をしたと思う。逆質問を許されたときに社名の由来※を尋ねたら、Iさんが「僕らも来たばかりでわからないんだ」と笑った。実際、大株主から出向者を集めた寄り合い所帯で、次年度に新卒を5人も採るという発想がバブルそのものだったわけだが、学生の分際でそこまで感じとることは難しかった。

※当時は通信衛星を、羽根を広げた形から鳥に喩える呼び方があった(三菱商事系のスーパーバードなど)。ミュージックバード伊藤忠三井物産系の通信衛星JC-SAT2号を使っていたので「バード」は不適当なのだが。

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ほかにポリドール(池尻大橋)だけが最終面接に進んでいた。最後は面接というより入社意志確認で、人事部長・総務部長と面談した。人事部長が、卒論に選んだ柴田翔を愛読しているとわかり二人で盛り上がっている横で、総務部長がキョトンとしていた。

結果、両社とも内定を勝ち取ったがさすがに迷った。新しいラジオ放送局立ち上げか、伝統ある外資系レコード会社か。いや、本当に迷ったのは半蔵門か池尻大橋か。卒業後は寮のある西武池袋線沿いに住みたいと思っていたので(マージャンに通いたい)、有楽町線で麹町に出れば半蔵門まで徒歩で通える。東急線はなじみがなく家賃も高い、ということでミュージックバードを選んだ。

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池尻大橋まで内定辞退のお詫びに行き、帰りに池袋シネマロサで映画を観た。ホドロフスキーの「サンタ・サングレ」の残虐な映像に気を失いそうになったが、途中で出ることもなく、最後まで見通した。ロールテロップが流れた刹那「長い就職活動がやっと終わった」と安堵した。すでに10月末になっていたと思う。当時はバブルど真ん中、「なるようになるさ」と楽天的だった。あのときポリドールを選んでいたら、レコード業界に進んでいたら、と今も時々思う。

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ミュージックバードのことはいくらでも書けるが、本章ではレコードをめぐる話題に限定する。入社後、FMセンタービルの資料室でレコードが好きなだけ借りられたのは至福だった。在職した3年間でいったい何枚借りただろうか。会社のコピー機でライナーノートや歌詞カードをコピーし、大学ノートでリストを作った。ここで初めて知ったアーティストは数知れず。Andwella、Keef Hartley、Grin、James Gangなど。なかでもHeads, Hands & Feetは忘がたい。Albert Lee率いる70年デビューの英国スワンプロック。最高だ。FMが開局した1970年前後にレコード会社の洋楽プロデューサーが売り込んだのだろう。資料室はとにかくすごい部屋で、ここで受付をして暮らしたいとさえ思った。

アパートは石神井公園にした(寮まで30分)。学生時代に買ったSONYの安いミニコンポを使っていたが、買ってすぐCDプレイヤー売り飛ばしたので依然としてCDはかけられなかった。さすがに91年ともなるとCDが基本フォーマットなので、最初のボーナス(最初はFMと同じ3ヶ月だったが開局前ということで1ヶ月に減らされた)が出てすぐに秋葉原の石丸電機に行き、PanasonicのMASHプレイヤーを買った。たまに買うCDのテープダビングやFMから借りたレコードのダビングで忙しかった。毎月給料が出ると家電量販店でカセットテープを買い込んだ。学生時代に入り浸っていた国分寺の中古レコード屋へも足が遠のき、レコードを買うことはほとんどなくなった。

通勤が池袋乗り換えになり、WAVE(池袋西武向かい)や山野楽器(PARCO)で輸入CDを買うようになった。レコファンもあっただろうか。学生時代に数十枚ほどだったCDコレクションが一気に500枚ほどに増えた。買い方は相変わらず「Rock Handbook」を参考文献にしていたが、山野楽器で「Rare Rock」というトンデモナイ本を見つけて、さらにロックの森の奥深くへ入っていった。洋書といってもほとんど私家版で、アルファベット順にアーティスト名がタイプライターで打たれたコピー製本のような簡素な作りだが、星の数でレア度を判定するユニークな本だった。

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「Maequee」「ストレンジデイズ」「クロスビート」「DIG」など和書文献も増え、珍しいだけという単純な基準で安いCDを買い漁っていた。今ある3000枚のコレクションのうち、半分以上がこの買い方で手に入れたものだ。今も聴いているかといえば、まったく聴かない(笑)。山小屋に持ってきたところで誰も喜ばないだろう。このまま娘に相続するしかない。

さて平成篇は初頭(1990年代)のエピソードのみとなった。終わりまで書けないわけではないが結婚後のことを書いても面白くない。引っ越すたびにレコードを処分し、ミッシェル・ポルナレフのLPが30枚ほど、アメリカのジャズロックバンドSPIRITのLPが同じくらい、その他手放せないレコードを残して150枚ほどに落ち着いた。

今も時々買うが、大学生になった娘と一緒に聴くために、さらに言えば彼女の子供(俺の孫)に聴かせたいと思えるレコードだけを買うようにしている。レコードもCDも、俺の偏頗な趣味を引き継いでくれる人間がいるだけでもラッキーだ。


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これは今年の9月、自分への誕生日プレゼントに買ったもの。Blodwyn Pig、Julie Driscol、John Mayall、The Alan Bown、Kokomo、Moby Grape、Muleskinner、The Electric Flag、Maria Maulder。

僕はいまここにいる。山小屋がこれからどうなるか皆目わからないが、いつか「アナログレコードのこと~令和篇~」を書きたくなったら、また。

10/9(土) 石巻の絵描きたち

 

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石巻のフォトジェニックな街角を瑞々しいパステル画で表現した故浅井元義先生の展覧会が今年もやってくる。長年教壇に立った県立石巻女子高校(現好文館高)美術部OGさんたちの、恩師顕彰活動の一環で、2018年の没後から3回目になるだろうか。毎年行ってるつもりだが去年の記憶がない。コロナでやらなかったかもしれない。

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9月に門脇のまねきショップ前の掲示板でポスターを見つけたので、店内に貼りたいとOGさんに提供をお願いしたら幹事数名でご来店いただいた。早速壁に貼り、インスタで紹介した。

浅井先生とは生前あまりご縁がなかった。高校で美術部だったので当時から御高名を存じ上げていた。当時(1983〜4年)「五高会」という交流会があり、石巻高校、石巻女子高、市立女子高、工業高、商業高の美術部で通年活動した。スケッチ会や日和山野外展、川開き祭りには観慶丸本店(新館)で前で似顔絵描きをした。秋の五高展はホシノ2階だった。今のニューゼやレストラン茅(かや)があるところだ。

そのなかで浅井先生率いる石巻女子校(セキジョ)美術室に集まって人物デッサンの講習会があり、そこで初めてお会いしたと記憶するが、他校男子部員を相手するわけもなく、人物デッサンなんてどうすりゃいいのさ?とわけもわからず美術室の真ん中に鎮座した某女子(いまや山小屋常連さんである!)を黙々とデッサンしたという苦い?思い出があるのみ。浅井先生の思い出でも何でもないが。

叔父(母の弟)が浅井先生と高校同期だったのでよく話を聞いた。当時から絵が巧かったらしい。親父の大学後輩でもあり、ともに市内高校教員だったので名前くらいご存じかと思い、2014年頃にナリサワギャラリーの黄土展(市内美術団体)会場で浅井先生をお見かけした際に名刺を渡したのだが、親父もお袋(押し絵師範)も記憶にないとのことだった。

浅井先生や叔父と同学年で、熊倉保夫さんという画家がいた。生前は存じ上げなかったが、震災後に息子(高校同期)が作っているカレンダーを毎年購入して愛用している。個人的には熊倉さんのほうが好きだ。浅井先生のは絵になりすぎているのと、パステルの柔らかな感じが自分の志向と異なる。熊倉さんの大胆な構図、荒々しいマチエールのほうが、石巻という街を現しているように思う。

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翻ってわが石巻高校美術部恩師、橋本和也先生は、黄土展のほかに中央画壇の旺玄会にも出品していたが、描く絵はラグビーばかり。美術部顧問のくせにラグビー部の練習ばかり。指導していたのかスケッチしていたのかわからないが、とにかく美術の指導を受けた記憶がない。まぁそういうところがウチらしいのだが。浅井先生は、その点はキチンと指導していたのだろう。だからOG会が熱心なのだ。

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橋本先生の絵が一枚、山小屋に飾ってある。仙台の叔母(お袋の末妹)宅にあったものを開店祝い代わりにもらった。1979年頃に家を建てた際にお袋が新築祝いに贈ったものだ。橋本先生の奥さんと短歌仲間だったので家族ぐるみのおつきあいをさせていただいていた。造船所のクレーンが居並び当時の中瀬の活気を思わせるが、どこか冷静な視点に見えるのはマット(艶消し)の絵の具を使っているからだろうか。浅井・熊倉両画伯の画風とも違い、こちらも味わいがある。

ほかに絵描き・美術教師で思いつくのは、東条照夫先生。門脇中で教わった。親父の一個下なので90歳近いが今もお元気で、先日も南浜復興祈念公園内のカフェどんぐりで個展をやったばかりだ(それには行けなかったが昨年のイトーヨーカドーあけぼの店個展でご挨拶した)。

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東条先生はちょっと硬いところがあって、お袋の押し絵展に来て「遠近がおかしい」と指摘して帰ったと、お袋が怒っていた。押し絵は浮世絵や美人画を元絵とする絵画表現なので西洋の画法と相容れないのは当然だが、許容し難かったのだろう。

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ここに紹介した絵描き(恩師)それぞれに石巻を想い、自らの表現を駆使して石巻を描いた。多少なりとも交わった者として、その顕彰作業には関わっていきたい。山小屋に来れば、そうした絵が見られるという環境をできるだけ維持したいと考えている。(マジメか!)

さらば、アタックチャンス。

クイズ番組「アタック25」が9月で長い歴史の幕を閉じた。日曜午後、お茶の間に憩いの時間を提供し続けた長者番組だ。お疲れ様と言いたい。

朝日新聞】最後のアタックチャンス!「アタック25」46年の歴史に幕

https://www.asahi.com/articles/DA3S15056014.html (記事全文は最下欄に)

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チャンネルはテレビ朝日系列(宮城では東日本放送)だが制作は大阪朝日放送(ABC)。児玉清さんのクールな進行で関西制作を感じさせなかった。思えばほかのクイズ番組のMCも俳優が多かった。タイムショック田宮二郎クイズグランプリの小泉博など。田宮死後は山口崇だったか。

ちなみにこの前の時間帯「新婚さんいらっしゃい」は大阪丸出し。最後の景品ゲームに出てくるYes/Noマクラの意味がわからなくて、親に訊いたらとても困った顔をしていたのが思い出深い(笑)。

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さて本題。93年だったか思いつきでアタック25の東京予選に出場したことがある。当時勤めていた会社後輩に「博識なんだから出てみたら? 後ろの応援団席で応援しますよ」とおだてられて、話のタネに応募ハガキを出したら書類選考を通過した。

呼ばれたのは芝公園朝日放送東京支社のビルだ。広い会議室に通され、50人ほどで筆記試験を受けた。笑ったのはディレクターがラジカセを持ってきて、開始前に番組のテーマ曲を流したことだ。♫パネルクイズ〜ニジューゴ〜シャンラララランシャンラララン〜。ムードを盛り上げようとしたのかしらん。

試験の出来はあまりよくなかった。一個だけ覚えているのは「国や地方公共団体の予算や会計などの検査を行う独立機関の名前は?」という問題で「会計検査院」と回答したこと。まぁ無理だろうなと30分ほど待っていたらディレクターが戻ってきて二次面接に進む名前を読み上げ、何人目かに名前が呼ばれた。まじか。全部で7〜8人いたと思う。

小さめの会議室に全員で入り一人ずつ面談を行う。3〜4人のスタッフが座り、真ん中のディレクターが進行・質問していた。住所や職業など、時に会社の実名を挙げてかなり突っ込んだ質問をされた。

通信衛星ラジオ局? どんな会社なんですか? そこでどんなお仕事を?」

答える内容よりもそれらをどんな感じで話すのか、回答者のキャラクターを重視されたように思う。クソ真面目に「朝日放送様にもご出資いただいております。開局したばかりですがCS-PCMという電波そのものが認知されておらず苦戦しています」などと話した。バブル崩壊直後でネガティブなことしか言えない状況だった。趣味は特に訊かれず職業(会社名)で引っかかっただけのこと。社会人3年目、笑顔の少ない実直総務マンだったのでウケがいいはずがない。案の定、数日後に落選通知が届いた。

平成に時代が変わったその頃には、昭和の視聴者参加クイズ番組は低調を極め、「ドレミファドン」や「平成教育委員会」などタレントが回答する番組が増えた。「100人に聞きました」「アメリカ横断ウルトラクイズ」などは頑張ったほうかもしれない。

これ以上、特に書くことはないのだが(笑)、一度でよいからスタジオで本戦に出てみたかったーーという話。今なら「山小屋店主」ということで面接に通過する自信はあるんだがなぁ。

(記事全文)

初代司会に児玉清さんを迎え、「パネルクイズ アタック25」(ABCテレビ制作、テレビ朝日系)が始まったのは1975年。当時は、「アップダウンクイズ」(TBS系)や「クイズタイムショック」(テレ朝系)などクイズ番組の全盛期で、多くは視聴者参加型だった。アタック25も一般から募集。これまでの出場者は9千人以上にのぼる。

オセロのように25枚のパネルを取り合うことで、解答者はクイズの知識や勝負師のセンスが問われることに。「お手つき」覚悟の早押し競争も、視聴者の目を引き付けた。そして、終盤の大逆転を可能にするあのルール。「アタックチャンスのもたらす予測不可能でスリリングな展開が、長年の人気を支えてきたのでは」と同番組の秋山利謙プロデューサーは推測する。

ただ近年は、よりマニアックな知識を問うクイズ番組が台頭。アタック25の視聴率は5~6%台で、ピーク時の24・2%(1979年、関西、ビデオリサーチ調べ)に比べると大幅に下がった。マンネリ化も指摘されており、幕引きを迫られる形となった。

最終回は26日午後0時55分から。歴代王者の中から、決勝ラウンドに進んだ4人が解答席に座り、おなじみのルールでパネルを奪い合う。(西田理人)

■テレビ見ない若者に危機感 長寿番組、相次ぐ終了  「メレンゲの気持ち」「とくダネ!」「ちちんぷいぷい」――。今年は数々の歴史的番組が引退した。  ABCテレビの山本晋也社長は7月、定例会見でこう説明した。「若年層のターゲットを考える上で、コンテンツの見直しをしていかなければなりません」

強調したのは、U49と呼ばれる49歳以下の視聴者の獲得強化。NHK放送文化研究所の昨年の調査結果を引き合いに出し、「10、20代はこの5年間で大きく下がっている。この層に届くコンテンツを作っていくのは当然のこと」と危機感をあらわにした。

調査によると、平日に15分以上テレビを見た人は、10~15歳が56%(2015年は78%)、16~19歳は47%(同71%)、20代では51%(同69%)。10、20代の半数がほぼテレビを見ない結果になり、業界を震撼(しんかん)させた。

アタック25の視聴者も中心は中高年層で、クイズの出演者も40代、50代が多い。いつの間にか、U49向けの戦略にはなじみにくい番組になっていた。

売りだった素人参加型も、時代とともに変わった。リアルタイムでなくても番組を見られるTVer(ティーバー)などが普及し、いまや配信ありき。準キー局の制作担当者によると「出演者の中に素人が交じっていると権利関係がややこしくなる。使い勝手を考えると、事務所を通してやりとりができる芸能人ばかりの方が都合がいい」。

背景には、スポンサーの意向も影響している。若い世代に商品を買ってほしいという要望に応える必要がある。ただ、若者たちを振り向かせるハードルは高い。人気ユーチューバーを起用したり配信と連動した番組を作ったりと必死だ。

しわ寄せは結局、約20年、30年と続く長寿番組へ押し寄せる。

だが、放送が終了したからといって、すべてが終わるわけではなさそうだ。ABCテレビの山本社長も「これでアタック25が世の中から消えるということではない。また違う形の展開があるかもしれない」と、その可能性を示唆する。

近年は、往年の番組を海外へ売り出すビジネスも盛んだ。制作のアイデアや演出、スタジオセットといった番組作りのフォーマットが海を渡り、現地版として新たに制作されることで、2018年度のフォーマット・リメイク権は約41億円(総務省)。5年前の4倍以上に上る。

昭和の人気恋愛番組「パンチDEデート」(関西テレビ)は2013年、ベトナムで現地版の放送を開始。1985年の最終回から30年近くたった復活だった。 (土井恵里奈)

■近年放送終了した主な長寿番組 ◇笑っていいとも!  フジテレビ 1982~2014 ◇はなまるマーケット  TBS 1996~2014 ◇とんねるずのみなさんのおかげでした  フジテレビ 1988~2018 ◇めちゃ×2イケてるッ! フジテレビ 1996~2018 ◇『ぷっ』すま  テレビ朝日 1998~2018 ◇メレンゲの気持ち  日本テレビ 1996~2021 ◇とくダネ!  フジテレビ 1999~2021  (「とんねるず~」は前身番組「~おかげです。」時代含む)

■放送の続く主な長寿番組  番組名・制作局・放送開始年 ◇NHKのど自慢  NHK 1953 ◇MUSIC FAIR  フジテレビ 1964 ◇笑点  日本テレビ 1966 ◇サザエさん  フジテレビ 1969 ◇新婚さんいらっしゃい! ABCテレビ 1971 ◇徹子の部屋  テレビ朝日 1976 ◇タモリ倶楽部 テレビ朝日 1982

10/2(土) 「おめー、なにちゅーや?」

(承前)横になってうとうとしていたらメッセンジャー。誰だ?

「開いてんの?」

Oだ。隣の石巻中学出身で高校同期。向こうが2年に上がれず留年したので交流なかったが震災後Facebookで仲良くなった。これは知らせねばなるまい。Oと同じ石中(セキチュー)Tちゃん、仕事でO家と関わりのある、わが門中(カドチュー)同期Yにそれぞれ「Oが来るってよ」とメールした。

19時過ぎにO登場。4年ぶりか。Oは実家がこの近所。今は関西暮らしだが親父さんの調子が悪く見舞いがてら帰省したという。

「この通りは子供の頃の遊び場。夏休みにはラジオ体操もしたよ。しかし何でまた店なんか」

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それはね、と説明を始めたところへTちゃん登場。抱きつかんばかりの興奮状態。幼なじみなんだね。昼間に店に誘ったら「イベントで疲れたからまた今度」と言ってたくせに、Oが来ると聞くや自転車を飛ばしてきた。なんだチクショー。

お互いの思い出話、積年の想いを語り合う二人。おいおい、俺に会いに来たんだよOは。石小石中の先生や友達の名前を言われてもちんぷんかんぷんだ。店の話も途中じゃないか……と思ったがお口にチャック。お客さんが楽しげに話してるのを制することはできない。温かく見守った。

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まぁでも、それに近いことを少し言ったらすかさずOが「俺たちの縄張りに店なんか出したらこうなるの当たり前だべ」と。ぎゃふん。二の句が告げなかった。

俺は海側の門小門中出身だが、ここ山小屋は街なかの石小石中学区のど真ん中。高校は同じでもたかだか3年の話。小中9年間を共にした幼なじみには敵わない。

もっと言えば、同学年女子とは微妙な距離感がつきまとう。石巻は高校から男子校女子校に分かれるからだ。中学が違う異性とは一生交じわれない。Tちゃんとも2年前に偶然知り合った。同じように石中から女子校に行った子たち(昼間に来たIさんとか)は同級でも同窓でもない。それでもなぜか仲よくしてくれる友人が多いのは、石小石中のフレンドリーな性格(校風?)によるのだろう。

駅前の商店街で小売店や飲食店、美容院をしている家に生まれ、両親が働いている昼夜は互いの家に遊びに行き、一緒に食事をしたり風呂に入ったりしたという。同級生を超えた関係だ。僕ら門小門中は公務員、会社員、工場勤め(製紙会社の社宅住まい)が多く事情が異なる。商人気質でもないので性格もおとなしめだ。石小石中生は逆に図々しいところがある。

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「山小屋を門小門中の溜まり場にしたい」という当初の企みは、今のところ当てが外れた格好だ。まぁ隣の学区に店を出してたらしゃーねーよな、と思っていたらドアが開いた。Yかと思ったらS子だった。今日の古本市に親子で出店していて、家族での食事が終わったらしい。カウンターの二人を見て「Tちゃん? やっと会えたー!」と抱きついた。ここも幼なじみ。45年ぶり。Oのこともすぐわかったようだ。すごいね、フルネームで出てくる。Oも面喰らっていた。3人でふたたび門小の話で大盛り上がり。もう勝手にしてくれ(笑)。

9時を回りT子が帰るのと入れ替わりでY来店。やっと加勢が来た。S子も帰りここからは男同士の飲み。なんだかんだ2時まで。飲んだねぇ。

記事タイトル「おめー、なにちゅーや?」は石巻で初対面の決まり文句。どの中学を出たかから全てが始まる。そんな街で店を出した俺。門中のくせに石中学区に店を出した俺。門中はあまり来ず石中軍団に翻弄される俺。もうどうでもよい。どこ中だろうと女子校だろうと、石巻を語れればよいのだ。そんな店でありたい。

*文中写真は震災前2007年頃の石巻街なかの風景(某ブログより無断転載)

10/2(土) 古書店兼業カフェの試み

3度目の出店となる石巻一箱古本市、つつがなく終了。予想に反して開店直後(11時〜)から来客がひっきりなし。メインエリアから離れてはいるが、駅に近いので「ここが最初です」という人が多かった。事前に束見本販売を宣伝したのも奏功したかも。束見本だけ買っていく客が多かった。これは売れないだろうなという本から売れていったのも面白かった。逆も然り。そういうところが面白い。

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前日に石巻入り。久々に新幹線で、台風とともに北上してきた。20:30店着。若いカップルが来てくれた。インスタフォロワーさんらしい。こんな天気にありがたい。東京駅で買った築地だし巻き卵、イカにんじんを出したら喜ばれた。その後は客は来ず、閉店まで古本市の準備。翌朝、まちの本棚に寄って出店料を払い、ノボリをもらって店へ。テーブルを表に出し、本を詰めた折りたたみコンテナをそのままボンと載せた。これが一箱流。

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午前の客は初めての人ばかり。

石巻に長年住んでるけど、こんな通りがあるなんて知らなかったよ」

「店は週末限定なのすか? んで今度来てみっから」

と古井戸通りと店をアピールできた。前日に仕込んでおいたアイスコーヒーをサービスで出したらどんどん出る。台風一過で汗ばむほどの陽気だ。本の会計の合間に上野謹製フレンチロースト豆を何度も挽き、コーヒーを何度も淹れる。終始こんな調子だった。

昼過ぎからは知った顔がチラホラ。向かいのおり姫ママ、品川屋ビルのエスポワールママ、もぐもぐのリサちゃん、松ばるのトモヤ君が来てくれた。同級生も多数。初めて会う石巻中出身の同期Iさんとは初対面。水彩画を描いていてパースを勉強したいと相談を受けたがそういう古書は見当たらず。スマホで見せてもらったがとてもよい。水彩のマスキングという技法は初めて知ったが光を表現するのに適している。市の美術展に出品するらしい。頑張ってほしい。

その後も街づくり研究、フランス文化研究といった大学の先生方がご来店。この古本イベントはいろんな学究に見守られている。15時過ぎにようやく落ち着き、その街づくり専門M先生に店番を任せてノボリを返却しに出た。腹がグーと鳴った。昼飯を食う時間がなかった。もりやでカツカレー蕎麦。茶蕎麦だったのね。

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店に戻って先生と交代。テーブルに名刺が置いてあった。東京のラジオ局の人。震災後、ボランティアや復興支援でよく来ているのは知っていたが面識がなかった。俺が91年に新卒で入った会社だ。話したかったなー。もう少し早く来てくれればよかったのに。

16時、誰もいなくなった。やっと休憩できると表のコンテナを片づけていたら仙台の従姉Y子が現れた。「来ちゃった。寄っていい?」。はいはい、どうぞ(内心深いため息)。そこへ「山小屋さーん」と呼ぶ声。古井戸のあたりで同級生S子の娘が手をふっている。母親と一緒に古本市に出店していたのだ。「コーヒー飲ませてくださーい」。やれやれ、休憩もできない。

客がいなくなったのは17時半。開店から6時間超。さすがにバテた。カフェタイムと古書販売を同時にやるのは無謀だったが、お客さん同士の交流が生まれ面白い効果があった。山小屋で「わー久しぶり」と顔なじみとバッタリ出会うことが多かったよう。古本市と山小屋との客層がぴたっとマッチした。

コーヒーをサービスしつつ店の名刺を渡し、ぜひ今度はお酒でも飲みに来てくださいと宣伝した。店の中も興味深げに見学していく。こういう場末の店に入ることに慣れていないのだろう。少しでもハードルを低くしたいところ。

そういえば偶然の出会いがあった。若い女性が本を一冊抱えて店内に入り、劇団どくんごのポスターを見て「ご存じなんですか?」と訊いてくる。兄貴がいたんですと言うと「私、Yの娘です」と。えー! 門脇の3軒隣のお米屋さんの? Yさんは兄貴の幼なじみで劇団がテントを張る場所の使用許可やチケット販売などをやってくれていた恩人だ。まさか娘さんと会えるとは。「ここ安いですね。今度お邪魔します」。これは楽しみ。昔話がいろいろできる。

今日、出会った人たちの顔を思い浮かべながらソファーベッドで横になった。

※夜は夜で大騒ぎだったが、長くなるのでいったん切る