港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

6/25(金) 看板問題にようやく着手

先週東京から来てくれたスナックママSちゃんに「看板つけないの? 大事だよ。早めにつけたほうがいい」と言われ、今回の滞在中に看板問題を片づけようと考えた。

まず会社PCで、ダミーで使っているアイコン画像の加工。特徴的な書体にレイヤーを重ねてトレースして塗りつぶし。A3にプリントしてバッグに詰めた。作業は土曜の午後だろうな。

今週は金曜がリモートデイ。今回はゴミの持ち帰りもあるのでインサイトで帰る。朝早めに家を出て下道を北上。朝食とらずに栃木付近まで来て、どこかでガッツリ食いたいなと、前から気になっていた本宮(郡山の北)のアサヒビール園へ。ジンギスカン食べ放題1600円。豚バラ×1、牛バラ×2、ラム×3、野菜×2でギブアップ。でも楽しめた。


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石巻には1830頃に着いた。エノキ、トマト、長芋、キュウリ、ズッキーニなどを購入。開店準備をして客を待ちながら、日曜までの作業プランを考える。電飾看板は昼間でないと作業できない。ランプの看板をひとまず撤去。かなりカビている。オープン後の長雨にやられたなぁ。これも明日やろう。


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今日のメニューはあなご蒲焼&てんぷら(イオン見切品を冷凍)、エノキと長芋(バター炒め)のチーズ焼き、ミーゴレンなど。オススメと定番のリズムがなんとなく掴めてきた。直前に寄ったスーパーでの買い物でその日のオススメを考えるのは楽しい。

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9時を過ぎても10時を過ぎても客が来ない。金曜は本当に厳しい。頑張って石巻に帰っても客が来ないのはつらい。土曜だけにするのもアリかもしれない。または金曜専門スタッフを雇うとか。

結局、店を閉めて飲みに行った。開店祝いをいただきながら全然行けてなかったエスポワールのほかにルーナと月夜野。しょうがないけれど、どこに行っても店のことばかり訊かれる。店の人間として行ってるわけじゃないんだが。まぁでも多少リフレッシュできた。

閉めたあとで誰か店に来ただろうか? それはそれで気になる。あまりこういうことはしないほうがいい。でも2ヶ月に1回くらいは、ね。

 

旅バイク購入。その名もアルペンマスター

あまりに重い車体、あまりに遠いレバー、あまりに熱いエンジンーー。跨るのが億劫になった30年前のビンテージバイクBMW(K100RS 4valve)をヤフオクに出品したらあっさり売れた。

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去年1月にヤフオクで山形の人から買ったBMWをしばらく石巻に置いて奥松島や雄勝を回ったりして楽しんだが、東京に持ち帰ってからは店の準備で忙しくなり乗れなくなった。車検を通しあちこち直したが、買った金額よりかなり上で売れたのだから上々だろう。一度BMWに乗ったことで気が済んだことにする。


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次こそ旅バイクに乗るのだ。外車ではなく国産アドベンチャーツアラー。候補はいくらでもある。今までずっと乗ってきたヤマハで選ぶならTDM850(900もいいけどあれはハイオク仕様)、カワサキならVelsys650、スズキならVストローム650、ホンダは手頃なのがない。アフリカツインやバラデロはデカ過ぎる。上記3車種に絞り込み、ヤフオクで何度か入札を試みたがこちらのイメージ通りの価格で落札できない。そもそもタマ数が少ない。ツーリングシーズンなので売り手市場なのだ。そこへ1台のバイク発見。


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スズキVストローム650。距離は走っているが、状態はよさげ。値引き交渉OKとのことなのでメールしたら車検2年と名義変更手数料コミコミでBMWが売れた金額に片手追い金でよいそう。かなりの好条件だが念のため入札前に見に行くことにした。平日の仕事終わりに足立区へ。地下鉄で30分もかからない。出品者のバイク屋店主に駅まで迎えに来てもらい保管場所へ。そしてVストロームとご対面。


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デカい。650だと思ってなめていた。この上の1000ccモデルとボディーが共通なのだろう。キーを挿してスイッチを入れるとドルルンと軽快なサウンド。Vツインのパルス感が絶妙だ。今まで2スト(DT200WR)、4ストシングル(XT400アルティシア)、4ストマルチ(FZ400ほか)を乗り継いで来たがVツインは初めてだ。跨らせてもらうと、183cm90kgの俺の体躯をガッチリ支えてくれる頼もしさ。これはいい!

3年前にTDMに跨った時も同じような頼もしさを感じた。あの時は大型バイク免許取り立て、記念すべき1台目を探して狛江レッドバロンで程度のいいTDMを見つけた。跨ってみてニヤリ。いたく気に入ったものの「これに乗ったたらハマり過ぎて他のに乗れなくなるよな」と敢えて敬遠した。その後ヤフオクでXJ900Sディバージョンという超マイナーなツアラー(空冷4発)を買った。あれはあれで楽しかった。北海道にも行ったがBMWに乗りたくなり売却した。


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(左からTDM850、カワサキVersys、ディバージョン900)

その時も候補に挙がったバイク(カワサキZRX1200S、スズキBandit1250Sなどのネイキッド系)を今回も候補に入れたけれど、店のこともあり高額バイクは買えない。これから頻繁に乗り換えることも恐らくはないだろう。このVストは2010年と高年式、インジェクション仕様、省燃費(リッター30km?)、6段リターン変速、ABS付きと至れり尽くせり。ヨーロッパで人気が高く「アルペンマスター」の称号を授かっている。TDMはアルペンローダーだっけか? 日本のバイクは信頼性が高く旅バイクとして高評価を得ている。山小屋店主にピッタリだ(笑)。その場で買うことを決めた。

軽い整備で車検は取れるという。タイヤもチェーンもスプロケも問題なし。フロントフォークにちょっと滲みがあるかな、まぁ大丈夫だろう。セブンイレブンで住民票をプリントして名義変更手続きを依頼した。ほかにETCとUSB端子の取り付けも頼んだ。

北千住駅まで送ってもらう間、若いバイク屋店主と歓談。つい先日、女川に行ってきたという。知り合いのバイクの名義変更で戸籍謄本を取りに女川の町役場に行ったとのこと。僕の田舎はその隣の石巻なんですよ、と言ったら石巻へは震災直後に行ったという。

津波でバイクを流された方が、バイクがないと困るというので安く譲ったんです。ほかにも岩手や福島にもバイクを納めましたよ」

あらあら、それはどうもありがとう。おかげで石巻はここまで復興することができました。勢いで店の名刺を渡してきた。

「バーですか、いいですね。僕も自分の工場に飲食スペース作りたくて。前はカフェの仕事もしてたんです。いま土地を探しているところです。早く自分の城がほしいですね。石巻に行くことがあれば店に寄らせていただきます」

またまた意気投合。ヤフオクで友人が増える一方だ(笑)。バイクの点検や修理はこの彼に任せることにしよう。

納車は来週か再来週。7月初旬だな。楽しみだ。梅雨の合間を縫って、このアルペンマスターで石巻に帰りたい。

6/19(土) 聖火が町にやってきた

1週間ほど前だったか、中学同期のK子からLINEが来ていた(似た書き出しばかりでご容赦)。

「来週の土曜日、石巻さ来んのすか? うちの旦那、走るってよ」

ああ、聖火のことか。もうそんな時期。ほかの地域では公道リレーを断念するとか、とてもじゃないがオリンピックを寿ぐ雰囲気ではないが、石巻は震災復興をアピールする目的もあるので決行するようだ。誰がそのランナー(K子のつれあい)なのかは書かないけれど、遺族として万感の思いを胸に走るのだ。ぜひ頑張ってほしい。もう一人、町の有名人が走るが、数日前に悪口を書いたばかりなのでここでは書かない。

この日は聖火が15時半に駅を出発するというので13時から2時間限定で店を開けたが誰もこなかった。警官のピーピーという笛の音ばかりが聞こえていた。ランナーが走る立町通りは店から100mもないのでよく聞こえる。交通規制が敷かれていて客が来るわけがない。


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15時に店を閉め、駅前でK子と待ち合わせて一緒にスタートを見た。K子たちはランナーを追いかけていったが、傘をさしてのんびり街中を散歩した。かわまちから中瀬に渡った。つい数か月前に架かったばかりの新内海橋(河口側。正式には何という名前だろう?)を初めて渡った。げんき市場から萬画館に直接アクセスできる感覚だ。


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まちの本棚に立ち寄り店長と世間話をして店に戻った。暇なのでキッチンの水道を修理した。ヤフオクで買ってあった中古蛇口(フレキシブルパイプ+レバー式×2ヶ所)をとりつけた。レバー式は楽でよい。東京の飲食店は今後レバー式でないと認可されないと聞いた。衛生面なのかバリアフリーなのか。外して余ったレバー式蛇口はトイレの手洗いに移設。これで水回りはほぼ完成。


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夜も暇だった。9時くらいになり今日もゼロかなぁと思ったらドアが開いた。顔を見て驚いた。東京でよく行くスナックRのSちゃん。えーーー、石巻まで?

「うん来ちゃった。やっぱり一度は見とかないとね」

ひえー。でもうれしい。ずっとLINEで相談に乗ってもらってた。店の改装過程も写メを送って報告していた。

「すごいね。これ全部一人でやったの? がんばったね」

思えばRやその階下Jに通うのが楽しくて、俺もこんな楽しい空間を石巻に作りたいと考えたのだった。同じビルでオーナー同士が仲良くやっている店に客として入り、混んできたら隣の店に移動したりまた戻ったりが楽しい。店によって客層が微妙に変わる(ママのキャラクター次第)のでいろんな人と出会える。

だからはっぴいえんどの下にした。客層は違えど、お互いに紹介しあって店と客のコミュニティを作りたかった。隣のBUGも斜め上のGAIN SONGも、斜向かいのおり姫もみんな気持ちのいい店主。向かいのスナックWさんのママとだけは仲良くなれないけれど(笑)。

Sちゃんは地方に行って一人でスナックめぐりをしたい人だから邪魔するのは不本意だけれど、石巻まで来てくれたのに一緒に行かないわけには行かない。下手な店に行かれて気分を悪くされたくない。

「このあとできれば俺も一緒に…」

「え? うーん…まぁいいか。出れるの?」

「閉める! もう来ないよ」

てな感じでシャッターを下ろして二人で聖火リレー、いやハシゴ酒。楽しかった。行ったことのない不思議なスナックにSちゃんが惹かれて突撃したら歓待され、ここも楽しめた。

「私こういうの外さないのよ」

さすがー。ホテルに帰る別れ際に「明日の午前に石巻を案内しようか?」と誘ったがチェックアウトぎりぎりまで寝ていたいとのこと。お互い翌日に東京に戻るのだが別行動となった。

東京の人が石巻に来ると、市内を案内したくてたまらない。どこをどう回ればいいか、何を見れば石巻に来たことになるのか、わからない人が多いからだ。でもそれは大きなお世話。その人なりに見たいものを見ればよい。何を見てどう感じるかは個人の自由(そもそも石巻に来たら日和山に登らなきゃいけない道理もない)。どうも俺はそこらへんを強制したがる癖がある。「俺の町を勝手に回るな」とばかりに。自意識過剰なのだ。

聖火リレーも、最初はそう思った。でも、今日一緒に町を歩いて、テレビカメラや報道カメラが町中くまなく撮影して、石巻の復興した姿を世界に届けたことだろう。それはそれでよいこと。ただ、もっとほかに見せたかった場所がある。門脇や南浜や大川を走ってもよかった。なかなかそうはいかない。

Sちゃん、来てくれてありがとうね。東京のたみんなに、俺は元気に山小屋をやっているよと伝えてください。

6/18(金) 断ち切れたはずの連鎖

仕事を終えて新幹線に乗ったところへLINE。「何時に開けるの?」Kからだ。「いま東京を出たばかりだから8時かな」「了解」...

いやいや、こんなふうに書いてたら何時間もかかる。今夜は中学同級生が大挙して集まってくれたので「閉店」の札をかけた。誰にも邪魔されたくなかった。店の前まで来てくれた方、ごめんなさい。

そのうちの一人Sとは高校卒業以来36年ぶりの再会。先に来ていたKとYが飲んでいるところへドアが開いた。マスクを外すと色黒のオッさん。俺の顔を見てニヤニヤ笑っている。「オーーーッ! 久しぶり!」と固い握手。Yがひそかに呼び出していたのだ。

こうなればS子を呼ぶしかない。前から約束していたのだ。いつか3人で飲もうと。でも正直、そんな日は来ないだろうと思っていた。Sとはまったく縁がなかったからだ。小学校が違うだけではないはず。まぁいろいろと。でも高校時代、一番話したんじゃないかな。部活のあとで雲雀野海岸に行って海を見ながら好きな女子のこととか。

俺は周りを引っ張るほうじゃなかった。誰かについて行ってばかり。何をやりたいのかわからなかった。部活(ソフトテニス)も一年で辞めて生徒会に方向転換。文化部ぐらいに入らなきゃと美術部に入ったら同じ学年に誰もいなかった。むしろ楽だった。そこから少しずつ変わっていった気がする。集団でつるむことをしなくなった。

社会人になり同期会やクラス会を率先してやったがそもそもガラじゃない。誰もやらないから仕方なくやっているだけ。20代半ばで企画した1回目の中学同期会(今はなきリバーサイドホテルで開催)のときもSに電話して誘ってみたが乗ってこなかった。お互い成人して昔と変わったんだなと悟った。たぶんもう会うことはないだろうな、1993年の時点でそう思った。約20年後にあの震災がきて全部リセットされた。それからさらに10年が経った。いまこうして石巻で店をしている自分は、何をしたいのかわからずとにかく手あたり次第挑戦していた頃と変わらない。そりゃ、震災がなきゃ俺も店なんかやってない。この店ができて、KやY、そしてSと会えるまでになった。はっきり言えないが、こうなりたくて店を始めたのかもしれない(達成感は、まだ足りない)。

1時間ほどしてS子が娘を連れて飛んできた。もうドンチャン騒ぎ。飲んでくれ、食べてくれ、歌ってくれ。でもなんだかちょっと疎外感。カウンターの中と外ってこんなに違うんだな。俺一人エプロンして食器を洗ったり氷を入れたり。目の前で盛り上がっている会話に入りたい。SとS子を二人きりで話させるものか。あれ? なんだか高校生に戻った気分だぞ(笑)。


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津波伝承館へ

朝の洗濯を済ませて自転車で門脇・南浜へ。コロナで休館中だった津波伝承館がようやくオープンしたというので見てきた。公園に行くのは3月に「石巻南浜津波復興祈念公園」がオープンした時、5月に山小屋を訪ねてきた東京の友人家族を案内した時に続いて三度目だ。

たぶん多い方だろう。市民にとっても復興祈念公園など一度行けばよく、何度も足を運んだりしない。伝承館が休館して展示が見られなかったと残念に思うこともない。みんな「どうせ大したものじゃない」と高をくくっている。自分のほうがもっと語れると思っているから。つらい体験をしているから。他人に語られるのは気分が悪い。でも語らない。

俺はそういう人たちに語ってほしいとは思わない。聞きたくないわけじゃないが見えない気持ちを慮っている。無理に語ることはない、僕や見知らぬ観光客になんかより、大事な人に伝えてほしい。もっと言えば「語り部」として人前で震災を語る人たちに少なからぬ違和感を持っている。津波の体験、肉親を喪った悲しみを乗り越えて、来訪者に伝承するのはとても立派だと敬意を表しつつも、あの津波を“安売り”しないでほしいという思いがある。とはいえそういう語り部の人たちがいて伝承が叶う面もある。


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結果論でしかないが、ここ南浜町に家を建ててはいけなかった。60年前は松林とススキが生える荒地だった。昭和の人口増加にともない宅地開発され街ができた。うちの親も、この南浜町に家を建てる危険性など微塵も感じなかったろう。そういう伝承がなされていなかったから。仮に津波が来ても膝下でチャプチャプ程度に思っていたはずだ。


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日本には、そこに家を建ててはいけない地域がゴマンとある。かつての津波や洪水や土石流を伝える塚や碑があったはずだ。それをどかして宅地開発を進めてきた。

伝承館のことはここには書かない。書かれていることはネットでわかることばかり。むしろ広大な公園を歩いてほしい。たとえば20歩ほど歩いたらそこに1軒の家があったと想像してほしい。そこに家族の営みがあったことを。そして今その足元に何百人の死が横たわっていることを感じてほしい。ここはろくに遺体捜索も行われないまま更地化し公園となった。沿岸各地でたまに行われる遺体捜索は砂浜ばかりなのは立ち入りが容易だからだ。ここは住宅地=私有地で公園整備に向けた用地買収にとてつもない時間と労力がかかった。家族全員が死んだ家ばかりだからだ。それが、一斉捜索が行われてこなかった理由と市は説明するのだが、それとても合点がいかない。そもそも市にやる気がない。道路や箱モノ作りが復興だと盲信している前市長に遺族の声はついに届かなかった。

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街が燃えた。家も学校も墓も幼稚園送迎バスも燃えた。そんな深い悲しみの街のド真ん中に「がんばろう石巻」などと脳天気大衆迎合のこれ見よがし看板を立てた大馬鹿野郎がいた。その看板を見に全国から野次馬が集まった。どこぞの宗教団体が金を出しているのか、いつの間にか立派な献花台までできた。「がんばろう」に手を合わせるという珍妙な光景が、この門脇南浜に出来上がった。ぜんぶ大馬鹿野郎Kのせいだ。そいつは来週、オリパラ聖火ランナーとして市内を走るらしい。津波が来たおかげで一躍街のヒーローになり、市民活動家ヅラしているKを、俺は絶対に許さない。

3月にオープンしたこの公園を歩いて頬を伝った涙は、悔し涙以外の何物でもない。生まれ育った門脇・南浜の町を震災で奪われ、10年の歳月をかけて更地化され公園が整備される過程で、家族を喪った遺族が、祈りを捧げ安らげる場所は、ついに出来なかった。それが悔しくてたまらない。

話が一向にまとまらない。このことについては引き続き書いてみたい。俺はこの先、この怨念の炎を糧として生きるのみだ。

 

6/12(土) みやぎ県民防災の日

宮城県民にとって「あの地震」と言えばもちろん東日本大震災をさすのだが、それ以前は1978年の宮城県沖地震をさしていた。僕は小学校6年生。夕方5時頃、同級生数人と遠く(柳の目)のバッティングセンターにいたらグラグラと地面が揺れ、プレハブのゲームがバタバタと倒れた。よく覚えていないが、慌ててみんなで門脇まで自転車を飛ばして帰ったと思う。

家に着いたら断水していた。次の日がプール掃除の日で、それに持っていくタワシがないと母親に言ったら「こんな地震があってプール掃除なんかやるわけないでしょ!」と怒鳴られた。母親なりにイライラしていたのかもしれない。小学校に給水車が来て何度か水汲みに行ったのを覚えている。仙台のほうではブロック塀が倒れて何人か下敷きで亡くなった。手抜き工事(鉄筋なし)が話題になった。わが家のブロック塀は倒れなかったが数年後の工事で門柱を倒したら案の定、鉄筋が入っていなかった。昔はそんなものだったのだろう。

3.11以後も6.12はみやぎ県民防災の日となっている。わが山小屋も一度客を迎えたらその命を守る必要がある。だがこの建物は大丈夫だろうか? 地震が来たら客と一緒に安全な場所に逃げるしかない。

昼は三組。小学校同級生がみごとな玉ねぎとニンニクを持ってきてくれた。家庭菜園で作ったらすごいことになったらしい。

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彼とは去年の夏に46年ぶりに再会を果たした。小学校1・2年で同級でむちゃくちゃ仲がよかった。3年生の時に転校してそれっきり。Facebookで繋がったのが数年前。去年ようやく会えた。俺が店をやると伝えたら「必ず行くよ」と言い、早々に約束を果たしてくれた。こういうのがうれしい。懐かしい再会はこれさらまだまだあるに違いない。

夜もふた組。夜はAさんが連日のご来店。フキを甘辛く煮たのを持ってきてくれた。来ていた高校同級生Mにも出した。ここは因縁の間柄で、呉越同舟と言えなくもないが、山小屋ではその関係性も薄れるのか3人で談笑して楽しい夜だった。門脇の人、もっと来てくれたらいいのにな。

21時頃に二人とも帰り、閉店の0時まで一人でDVDを観ていた。店を閉めて帰ろうかと思ったが2階はっぴいえんどに寄ってみた。ところが眠くて仕方がない。ママの話もウワの空。昔は2時3時まで平気で飲んでいたが、やはり疲れてるのかな。客と店とで立場も気分も違いすぎる。客がいい。客になりたい。今日はこれで帰るが、次はもっと長居してやる!

6/11(金) 山の幸が届いた

石巻に向かう新幹線でうとうとしていたら携帯に着信が。門脇のAさんだ。ひと回りほど上の友人…と言っても怒られないだろう。いろんなところでお会いする。

「渡したいものがあるんだけど何時に行けばよい?」

今日は定時まで会社にいたので石巻に着くのは21時過ぎですよ、と伝えたら少し悩んで「じゃあその頃に」。門脇の人が来るのは初めてだ。

僕は門脇3丁目の生まれだ。実家があった場所は称法寺のすぐ北側で石巻ローンテニスクラブの坂下になる。そこには今は復興公営住宅(門脇東)が建っている。震災当時、親が住んでいた家は南浜町だったのでこの家には叔母が住んでいた(叔母は中里にいて無事だった)。なので、震災寺に門脇町と南浜町の両方に家がありどちらも被災したという、石巻ではかなり珍しい罹災者である(笑)。

僕にとっての石巻は門脇町での思い出しかなく(南浜町でもよく遊んだが)、居住可能となった新門脇の復興を見届けたくて、この10年間石巻に通い続けた。そのなかで出会った一人がAさんなのである。

21時過ぎに石巻到着。いつも寄るイオンは20時閉店なので駅からまっすぐ店に行き、看板を出し、電気を点け、エプロンをかけ、トイレ掃除をし、テーブルと椅子をアルコール消毒をし、床を掃除して開店。そこへAさん。持ってきたのはビックリグミだった。

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「夏グミの一種でうちの庭で採れたのよ。苦いのや酸っぱいのがあるけど、凍らせてウイスキーに入れると面白いよ」とのこと。一つポイと口に入れたら苦味と酸味のはるか彼方にほんのり甘味を感じた。2、3個食べたら口の中にエグ味が広がった。ワラビも持ってきたという。これも庭で採れたらしい。門脇産。日和山産かな。あとでアク抜きしなきゃ。

旧門脇小学校が震災遺構として公開される前に、伝承する地元の体制づくりを市と協議しているがなかなかうまくいかないとのこと。中間支援という考え方が噛み合わないそうだ。この手の話は人伝てだとよくわからない。関係者にちゃんと聞かないとな。あとはなぜか高校の話に。体育祭で縦割りクラスごとに櫓(やぐら)を組んだのはいつからか?と訊かれてもAさんが知らないのに俺が知ってるわけがない。僕らの頃は畳で言えば8帖くらいの絵を何枚か描いて、それをバックに応援歌を歌い喉を枯らした。今はどうなってるのだろう?

わが母校については、つい先日もBSテレ東で紹介されたばかり。卒業生は愛校心を刺激されたのかもしれない。Aさんは中村雅俊さんの1年下。「番組で言われるほどに目立ってはなかったよ」。お互いマイナー文化部(美術部)なのでやっかみなのはバレバレですよ、とからかった。

続いて常連さんがふた組。金曜にしては賑やかな夜だった。ワラビをアク抜きして水に晒し、ひと晩寝かせることにした。


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腹がへったので南華園へ行ってみた。時短要請中は休業していたが6月からやっているらしい。自転車を停めると店の中から若い女性の声がする。おやひょっとして? やはり龍呑亭(門脇にあった中華料理店)の娘さんだった。実家に帰ってたのか。


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五目あんかけそばを食べながらチラチラとアイコンタクトを試みたが反応なし。向こうは覚えていないようだ。9年ぶりだもんなー。会計の時に「南浜町のYです」※と言ったら「アーーーッ! どこから来たんですか?」といきなり変なことを訊く(笑)。アパート借りていつもこのあたりで飲んでるよ。

震災の年はここ南華園で親父とお袋(龍呑亭の常連だった)の思い出を語り、翌年蛇田にオープンした新・龍呑亭でも何度か会っていた。だがいつしか店がなくなり風の噂で函館に渡ったと聞いた。

石巻に戻った事情までは聞いていないが、またこうして南華園で会えるのはうれしい。山小屋の名刺を渡したら「絶対に行きます」と言うけれど深夜営業の中華料理店を手伝っていたらほかの店など行けるはずもなく、俺がこっちに来るしかない。ああ、また太るなぁ。

 

※両親が龍呑亭に通っていたのは南浜町に移ってからなのでこういう言い方をした