港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

津波伝承館へ

朝の洗濯を済ませて自転車で門脇・南浜へ。コロナで休館中だった津波伝承館がようやくオープンしたというので見てきた。公園に行くのは3月に「石巻南浜津波復興祈念公園」がオープンした時、5月に山小屋を訪ねてきた東京の友人家族を案内した時に続いて三度目だ。

たぶん多い方だろう。市民にとっても復興祈念公園など一度行けばよく、何度も足を運んだりしない。伝承館が休館して展示が見られなかったと残念に思うこともない。みんな「どうせ大したものじゃない」と高をくくっている。自分のほうがもっと語れると思っているから。つらい体験をしているから。他人に語られるのは気分が悪い。でも語らない。

俺はそういう人たちに語ってほしいとは思わない。聞きたくないわけじゃないが見えない気持ちを慮っている。無理に語ることはない、僕や見知らぬ観光客になんかより、大事な人に伝えてほしい。もっと言えば「語り部」として人前で震災を語る人たちに少なからぬ違和感を持っている。津波の体験、肉親を喪った悲しみを乗り越えて、来訪者に伝承するのはとても立派だと敬意を表しつつも、あの津波を“安売り”しないでほしいという思いがある。とはいえそういう語り部の人たちがいて伝承が叶う面もある。


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結果論でしかないが、ここ南浜町に家を建ててはいけなかった。60年前は松林とススキが生える荒地だった。昭和の人口増加にともない宅地開発され街ができた。うちの親も、この南浜町に家を建てる危険性など微塵も感じなかったろう。そういう伝承がなされていなかったから。仮に津波が来ても膝下でチャプチャプ程度に思っていたはずだ。


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日本には、そこに家を建ててはいけない地域がゴマンとある。かつての津波や洪水や土石流を伝える塚や碑があったはずだ。それをどかして宅地開発を進めてきた。

伝承館のことはここには書かない。書かれていることはネットでわかることばかり。むしろ広大な公園を歩いてほしい。たとえば20歩ほど歩いたらそこに1軒の家があったと想像してほしい。そこに家族の営みがあったことを。そして今その足元に何百人の死が横たわっていることを感じてほしい。ここはろくに遺体捜索も行われないまま更地化し公園となった。沿岸各地でたまに行われる遺体捜索は砂浜ばかりなのは立ち入りが容易だからだ。ここは住宅地=私有地で公園整備に向けた用地買収にとてつもない時間と労力がかかった。家族全員が死んだ家ばかりだからだ。それが、一斉捜索が行われてこなかった理由と市は説明するのだが、それとても合点がいかない。そもそも市にやる気がない。道路や箱モノ作りが復興だと盲信している前市長に遺族の声はついに届かなかった。

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街が燃えた。家も学校も墓も幼稚園送迎バスも燃えた。そんな深い悲しみの街のド真ん中に「がんばろう石巻」などと脳天気大衆迎合のこれ見よがし看板を立てた大馬鹿野郎がいた。その看板を見に全国から野次馬が集まった。どこぞの宗教団体が金を出しているのか、いつの間にか立派な献花台までできた。「がんばろう」に手を合わせるという珍妙な光景が、この門脇南浜に出来上がった。ぜんぶ大馬鹿野郎Kのせいだ。そいつは来週、オリパラ聖火ランナーとして市内を走るらしい。津波が来たおかげで一躍街のヒーローになり、市民活動家ヅラしているKを、俺は絶対に許さない。

3月にオープンしたこの公園を歩いて頬を伝った涙は、悔し涙以外の何物でもない。生まれ育った門脇・南浜の町を震災で奪われ、10年の歳月をかけて更地化され公園が整備される過程で、家族を喪った遺族が、祈りを捧げ安らげる場所は、ついに出来なかった。それが悔しくてたまらない。

話が一向にまとまらない。このことについては引き続き書いてみたい。俺はこの先、この怨念の炎を糧として生きるのみだ。