港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

6/11(金) 山の幸が届いた

石巻に向かう新幹線でうとうとしていたら携帯に着信が。門脇のAさんだ。ひと回りほど上の友人…と言っても怒られないだろう。いろんなところでお会いする。

「渡したいものがあるんだけど何時に行けばよい?」

今日は定時まで会社にいたので石巻に着くのは21時過ぎですよ、と伝えたら少し悩んで「じゃあその頃に」。門脇の人が来るのは初めてだ。

僕は門脇3丁目の生まれだ。実家があった場所は称法寺のすぐ北側で石巻ローンテニスクラブの坂下になる。そこには今は復興公営住宅(門脇東)が建っている。震災当時、親が住んでいた家は南浜町だったのでこの家には叔母が住んでいた(叔母は中里にいて無事だった)。なので、震災寺に門脇町と南浜町の両方に家がありどちらも被災したという、石巻ではかなり珍しい罹災者である(笑)。

僕にとっての石巻は門脇町での思い出しかなく(南浜町でもよく遊んだが)、居住可能となった新門脇の復興を見届けたくて、この10年間石巻に通い続けた。そのなかで出会った一人がAさんなのである。

21時過ぎに石巻到着。いつも寄るイオンは20時閉店なので駅からまっすぐ店に行き、看板を出し、電気を点け、エプロンをかけ、トイレ掃除をし、テーブルと椅子をアルコール消毒をし、床を掃除して開店。そこへAさん。持ってきたのはビックリグミだった。

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「夏グミの一種でうちの庭で採れたのよ。苦いのや酸っぱいのがあるけど、凍らせてウイスキーに入れると面白いよ」とのこと。一つポイと口に入れたら苦味と酸味のはるか彼方にほんのり甘味を感じた。2、3個食べたら口の中にエグ味が広がった。ワラビも持ってきたという。これも庭で採れたらしい。門脇産。日和山産かな。あとでアク抜きしなきゃ。

旧門脇小学校が震災遺構として公開される前に、伝承する地元の体制づくりを市と協議しているがなかなかうまくいかないとのこと。中間支援という考え方が噛み合わないそうだ。この手の話は人伝てだとよくわからない。関係者にちゃんと聞かないとな。あとはなぜか高校の話に。体育祭で縦割りクラスごとに櫓(やぐら)を組んだのはいつからか?と訊かれてもAさんが知らないのに俺が知ってるわけがない。僕らの頃は畳で言えば8帖くらいの絵を何枚か描いて、それをバックに応援歌を歌い喉を枯らした。今はどうなってるのだろう?

わが母校については、つい先日もBSテレ東で紹介されたばかり。卒業生は愛校心を刺激されたのかもしれない。Aさんは中村雅俊さんの1年下。「番組で言われるほどに目立ってはなかったよ」。お互いマイナー文化部(美術部)なのでやっかみなのはバレバレですよ、とからかった。

続いて常連さんがふた組。金曜にしては賑やかな夜だった。ワラビをアク抜きして水に晒し、ひと晩寝かせることにした。


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腹がへったので南華園へ行ってみた。時短要請中は休業していたが6月からやっているらしい。自転車を停めると店の中から若い女性の声がする。おやひょっとして? やはり龍呑亭(門脇にあった中華料理店)の娘さんだった。実家に帰ってたのか。


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五目あんかけそばを食べながらチラチラとアイコンタクトを試みたが反応なし。向こうは覚えていないようだ。9年ぶりだもんなー。会計の時に「南浜町のYです」※と言ったら「アーーーッ! どこから来たんですか?」といきなり変なことを訊く(笑)。アパート借りていつもこのあたりで飲んでるよ。

震災の年はここ南華園で親父とお袋(龍呑亭の常連だった)の思い出を語り、翌年蛇田にオープンした新・龍呑亭でも何度か会っていた。だがいつしか店がなくなり風の噂で函館に渡ったと聞いた。

石巻に戻った事情までは聞いていないが、またこうして南華園で会えるのはうれしい。山小屋の名刺を渡したら「絶対に行きます」と言うけれど深夜営業の中華料理店を手伝っていたらほかの店など行けるはずもなく、俺がこっちに来るしかない。ああ、また太るなぁ。

 

※両親が龍呑亭に通っていたのは南浜町に移ってからなのでこういう言い方をした