港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

日本画家の高山辰雄先生が亡くなられた。

「食べる」大分県立芸術会館蔵

9月14日、肺炎のため95歳で逝去された。大往生とはいえ、痛惜の念でいっぱいである。
3年ほど美術雑誌の編集をしていたので、職業画家の方には多数お会いしたが、心から「先生」と呼べるのはごく少数で、高山先生はその最高峰であった。
1998年の6月だったか、巻頭特集の取材で成城のアトリエを訪ねた。私のような新米編集者のヘナチョコ質問にも、真剣に答えてくださった。先生の描く鬱蒼とした森を見て、なぜか橋本関雪の絵を思い出し「先生、これ(黄金色の背景)は金泥ですか?」とバカな質問をしたのを覚えている。高山先生は苦笑いしながら筆を持ち直し、真剣な顔つきで画面に向かわれた。思い出すだけでも冷や汗が出る。特集企画の「画業を振り返る」とはご都合主義もよいところで、昭和+平成の時代とほぼ重なる80年の歩みは、苦悩と奮闘を繰り返す星霜であった。
高山先生の真骨頂は何と言っても人間、家族に対する慈愛に満ちた画想である。98年の取材時も神戸の事件を念頭に置かれてか「最近は家族関係が壊れてきたような事件ばかり起きて悲しいね」とおっしゃっていた。この「家族愛へのまなざし」こそ高山芸術を解く鍵であると想到し、少子高齢化を示すグラフを添えて見開き2ページの記事にまとめた。雑誌発売から数ヶ月たった11月、上野の日展会場で高山先生は「あなたが書いてくれた家族の記事、とてもよかったよ」と光栄にも声をかけてくださった。
それ以来、何度か取材をさせていただいた。中村岳陵門下で将来を嘱望されつつ1961年に日展を脱退した森緑翠氏が亡くなったときも、どうしても高山先生にコメントをもらいたくて電話取材した。日展顧問という立場上、コメントしにくかったはずだが気さくに応じてくださった。昔の仲間をいつまでも大切にする方だった。
数年前、その出版社の創業社長が亡くなり、小さな寺で葬儀が営まれたとき、会葬者の席にぽつんと座る高山先生の姿を見つけ、わが目を疑った。普通、画家はそんなところへは来ない。悪徳画商のような仕事もする業界出版社との関係を公にするのは憚られるからだ。日展顧問、芸術院会員、文化勲章受章者である高山先生が、生前世話になった人(社長)の葬儀に“普通に”参列する姿に、「やはり高山先生はすごい人だ」と感じ入った。私も線香を上げながら「他の誰から忘れられても、高山先生に見送られて社長は幸せですね」と心の中でつぶやいた。
15日の朝日夕刊の弔文で寄稿者の草薙奈津子氏が「食べる」(1946年)を代表作に挙げているが、私も、後年違う構図?色調で描かれた同名の「食べる」(1973年)を代表作に挙げたい。3歳ぐらいと思われる男の子が一心に茶碗のご飯をかっ込んでいる。「先生、これはどういう心境で描かれたのですか?」「親戚の子が真剣に食べているのを見て、単純に『描きたい』と思っただけだよ」「画面下の黒い帯は何ですか?」「何でもないよ。こうしないと絵にならないような気がしてね」――、そんなやりとりが思い出される。
本葬は10月11日に高輪の高野山東京別院で行われるという。もしかすると、99年に高野山金剛峰寺に奉納された高山先生の障壁画「投華―密教に入る」が見られるかもしれない。何とか仕事の都合をつけて、お別れを言いに行きたい。