港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

平山郁夫さんのこと

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石巻市博物館で、日本画家・平山郁夫が描いた奥の細道展をやっている。芭蕉は松島から平泉に抜けようとして道を違え石巻に迷い込んだ。「奥の細道」にはその時のことを書いた章がある(大学の古典文学演習でレポートした)。ゆえに石巻は未来永劫「奥の細道」を題材にいろんな企画ができるわけで、今回の展示もそれにあたるのだろう。

でもまさか、奥の細道平山郁夫さんの取り合わせとは。そんな仕事をしていたことを知らなかった。

平山さん、とさん付けで呼ぶのは、「先生」と呼べる画家を選びたいからだ。美術雑誌編集時代にお付き合いしたなかで先生と呼びたいのは、高山辰雄先生、高塚省吾先生、佐々木豊先生の3人だけである(版元がバレバレだが)。平山さんとも何度かお話しを聴いたり、絵を頂戴に行ったりしたが、尊敬の念は特に芽生えなかった。日本画の伝統を継承するでもなく革新するでもなく、線や色彩もボヤッとして眠いせいもあるが、広島で被爆して原爆症で悩んだこと、東大を目指すほど秀才だったこと、前田青邨に師事したことの吹聴、自民など政府系団体の役職が多く政治家との繋がりが強かったことなど、作家性以外の属性ばかりが目立っていた。

東京美校(現藝大)で平山さんと同期だった某画家から聞いた話によれば、前田青邨の弟子という話はどうも違うようで、須田珙中(すだきょうちゅう)という院展助教授に師事していたのが珙中が病気で亡くなり、半ば引退していた青邨が珙中教室の学生の指導を引き受けたということらしい。その方は「平山の経歴から珙中先生が消されているのが許せない」と憤慨しておられた。「珙中門下」では華がない、ということなんだろう。それを聞いて、平山さんという人がなんとなくわかった気がしている。

まぁでも、話をするといろいろ話題豊富で、インタビューでも日本経済の話からサッカー日本代表の話まで、およそ日本画家とは思えない守備範囲の広さに驚かされた。インタビューを受けるのが得意で、自分を大きく見せる術を持っていた。

アンコールワット遺跡 夕陽」だったか、院展出世作リトグラフにしましょうと話して、色校正を持っていったりサインと落款をいただいたり、鎌倉二階堂の私邸に何度も足を運ばせてもらった。制作したリトグラフを200枚ほど持っていき、和室のテーブルに二人で座って、平山さんが「郁夫」と鉛筆で書き、僕が落款を捺す作業をしたこともある。1枚250万円の上代で印税が10%だからサイン1回で25万円。およそ画家の仕事ではない。それをやらせる版元も版元だが、今でいうWin-Winの関係を当代随一の画家と構築するのは並大抵でなく、社員を路頭に迷わせないためと思い頑張ってやったことだ。販路は専門の画商が数社、個人よりも法人の需要が多かった。社長室や玄関に飾られたことだろう。

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平山さんを悪く言う人は多いが、基本的には篤実でまっすぐな人だった。人を信用しすぎるのか、絵を描くのが忙しいのか、周りがしつらえたことを無批判に黙々とやるので、画家らしくないふるまいが目立ってしまい、そこが批判された。僕ら業界人も平山さんの“御威光”に縋って甘い汁を吸っていたのだから批判するのは狡い。批判はしないけれど、あの人はどうしても誉めにくいのだ。絵が、ねぇ。。。

https://makiart.jp/foevent/event_220520/

そんな平山さんの絵が、郷里石巻の博物館を飾るというのが不思議でならない。なんだかコソバユイ気がする。震災前に逝った平山さんは、空の上から復興半ばの石巻を見て、何を思うだろうか?