港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

天津飯探訪記at石巻

1月からこんなことを始めた。きっかけはいろいろある。

日高屋新メニューに天津飯が加わったこと(今もよく食べる)

・中国天津でオミクロン株が急拡大したニュースで天津飯や天津甘栗の話題が出た(日本でどのように天津飯が定着したか)

・友人のインスタで市内中華の天津飯が紹介されたこと(東日本では珍しい塩味だった)

日高屋以外では天津飯を食べることは少ないが、卵料理は好きなので食べ歩きして味を調査するのも面白いかなと。全部は回れなかったが19店ほど調査して17杯の天津飯を食べた。

そもそも天津飯は中国オリジナルではなく日本発祥の料理。詳しくはググっていただきたいが、味つけには地域差がある。関東は甘酢あん、関西は塩味が主流だ。大阪の人が東京で天津飯を食べると酸っぱいのに驚くという。

食べ歩きの話をすると大抵が「なぜ天津飯? ラーメンとか炒飯にすればよいのに」という。実はここが天津飯の面白いところ。誰も天津飯なんかに期待していないのだ。野球でいえば7番バッター。中華料理屋に行って、さぁ今日は中華を食うぞというときに、まず候補に上がらないメニューだ(かに玉は別として)。思い入れがないので、天津飯食べ比べと言われても意味がわからないのだろう。

作る側も似たようなもの。「うちの自慢は天津飯です」という店はほとんどない。おそらく大した研究もせず、こんなもんかと適当に味つけをしていると思われる。石巻に限らず全国的にそうだろう。

実は石巻にいた頃に天津飯を食べたことがない。南浜町のクサカストアのところに新しい中華料理店が出来たとき、雲雀野グラウンドで親父とキャッチボールをした帰りに寄って、親父が天津飯を頼んだので初めて知った(店の名前が思い出せない。親父と同級生だったから鰐陵23回生と思われる)。天津飯を初めて食べたのはよく覚えていないが東京だろう。だから甘酢あんのイメージが強い。

前置きが長くなったが、そんな天津飯石巻でどのように提供されているのか知りたくなったのだ。足掛け5ヶ月にわたり食べ歩いた17杯の天津飯。以下に店名、味つけ、写真、コメントを列記していく。

1 南華園(醤油甘酢)

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記念すべきスタート。ここは何でも黒い。味つけも強め。小学4年の時にここで初めて「かた焼きそば(揚げそば)」を食べて、世の中にこんなにうまい食い物があるのかと驚愕した。中学に上がると中華麺を油で揚げて自作したほどだ。そんな思い出の店(今はかた焼きそばはやってない)。

2 北京大飯店(醤油甘酢)

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大街道の有名店。家族でよく行った。表に天津飯のノボリがはためいており期待大。甘酢あんが別添えで供されたのには驚いた。といって自分でかけるのが楽しいわけではない(笑)。石巻を代表する老舗だけあって恥ずかしくないお味。

3 桂花(醤油甘酢)

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3〜5の3店はかつて門脇にあった食堂だ。子供の頃に何度も行っている。駅前の桂花は横浜梅蘭風焼きそば(麺の中にあんかけを閉じ込める)や卵白チャーハンなど工夫する店なのだが天津飯はいたって平凡。美味しいのだが、また食べたいというほどでもない。

4 一龍(醤油甘酢)

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青葉の人気店。ここが移転した後に桂花ができた。いつも混んでいる。酢はきつくなくゆるい餡がサラッとかけてあり主役の卵を楽しめる。安心の味。

5 東京屋食堂(醤油甘酢)

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ここは大衆食堂なので中華の作法からやや外れているかもしれないが、そのぶんダシの旨味を感じさせる。椎茸やタケノコも入って具沢山。半ラーメンもつけて満腹だ。

6 小西湖(塩)

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湊の町中華代表格。朝一番に行ったらすぐ満員になった。どんな天津飯かと思ったら塩味。石巻で初めてだ。これも卵をしっかり際立たせている。そもそも卵焼きに醤油というのはくどい味つけなのだ。反面あっさりし過ぎか。やや物足りなくもある。一緒に付けた半ラーメンのスープも薄味だった。お年寄り向き?

7 温州菜館(ケチャップ甘酢)
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出た。第三の味。中華でケチャップ味は、チキンライスを筆頭に町中華の王道だが、この店は本格中華のはず(料理人が大陸の方)。酢豚もケチャップなのだろうか? でも洋食風で嫌いじゃない。スープが牛テールスープみたいで美味しかった。

8 デリシャス(醤油甘酢)
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蛇田の人気店。初めて入った。ファミレスみたいでやたらメニュー豊富。味つけもクセがなく標準的。老若男女が楽しめる味にしている。それでいてここは裏メニューがあるらしい。移住したら通いたい店。

9 とらの子(醤油甘酢)
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新居近辺、山下地区ローラー作戦第一弾。ここは町中華と本格中華の中間という趣き。中華好きの親父が生前通っていた。他店より1割ほど高めだが量も多い。卵はフワトロではなくしっかり固めるタイプ。好み。たぶんどれも美味しいのだろう。近くに引っ越してきてよかった(出前もしてくれそう)。

10 長寿飯店(ケチャップ甘酢)
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第二弾。船で食事係だった店主が陸に上がって開いた店と聞く。店名も店構えも本格中華っぽいが町中華だろう。ケチャップ味だが風味を効かせる程度。メニューに山東麺とあるのが気になる。

11 雲雀(醤油/オイスターソース)f:id:bar_yamagoya:20220603135202j:image

第三弾。街なかから越してきた上海の方のお店。こういう料理人が作る天津飯はどうなるかという好例。おそらく中華飯と同じ味つけだろう。料理人として卵焼きに甘酢は合わない、と考えているのかもしれない。料理としてはたしかに美味いが、天津飯とは言えない気もする。食べる側の問題だが。ちなみに雲雀ではいつもルーロ飯を食べる。餃子も美味しい。

12 福龍飯店(醤油甘酢)
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数年前に初めて存在を知った店。里山にポツンと建っている。旧河南高校に近いので親父も通ったかもしれない。メニュー豊富で炒飯だけで10種類ある。王道のこれぞ天津飯。脳が欲する味(笑)。「料理が美味しい」というのはそういうことなんだろう。ここも通いたい。

14 南京飯店(醤油)
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BSの町中華探訪番組で長寿飯店とともに紹介されていた。驚いたのは天津飯を頼むと「醤油、塩、ケチャップのどれにしますか?」と訊かれる。悩んだ末に最もマイナーな醤油にした。美味いのだがボンヤリ。客に選ばせるのは面白いが、なぜ甘酢が選べないのかが謎だ。ここの人に「天津飯とはどういう料理ですか?」と訊いてみたい。

15 裕味(醤油甘酢)
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3.11セレモニー翌日に兄貴と行ってみた。中里で30年以上やっているという。兄貴は中華そば。「初めての中華店はラーメンに決まってるだろ」という顔をされた。ひと口食べたら、確かにここの自慢料理ではなさそうだと感じた(失礼ながら)。独自の工夫をせずとも成立し、食べる側も大した期待をしない、そこが天津飯の深い悲しみ。

16 楼蘭(塩味)
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街なかの本格中華。友人がここの白い天津飯をインスタに上げていた。目の前に運ばれても見た目から味が想像できない。鶏ガラスープのダシだろうか、上品な味わい。美味しいが、何が何でもこの味を食べたいということでもない。やはり天津飯を口に入れるときの脳は、甘酢を欲しているようだ。

17 紅蘭(ケチャップ甘酢)
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結果的にここが最後になった。かなりケチャップを入れている。酸味がガツンと来る。天津飯は上品さよりも下品さが似合う。半ラーメンをスープ代わりに掻き込むのがいい。ここや桂花もそうだがサツマイモの甘炊きを置いている。これはどこの風習なのだろう? 石巻だけ? 宮城?  全国?

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以上17杯。以下は番外。駅前の注受(そそうけ)、大街道の吉野ではメニューに天津飯がなかった。残念。また湊の揚子江、穀町の北園は割愛させていただいた。書くまでもないがグランドホテルの中国飯店もだ。理由は推して知るべし。天津飯だもの。行けなかった店も挙げておく。広渕の龍昇、飯野川の吉華、鮎川の上海楼。別メニューでチャレンジしたい。

ごちそうさまでした。石巻の中華はどこも美味しいです。ぜひ味をお運びください。

 

GWの営業終了

5月4日で終了。大勢来てくれた。いつも来る人、一年ぶりの人、初めての人、いろいろ。ただ、数的には思ったほどではなかった。向かいのおり姫ママも「はっぱ来ねよわ」と愚痴っていた。

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世の中的には、行動制限のないGWは2019年以来3年ぶり。飲みに出歩いている場合ではなかっただろう。宮城は強硬派の村井知事(通称ムーチン)がまん延防止措置策を敢えて採らず、今年に入って休業や時短の要請が出なかったので、飲食店は営業を続けていた。県内・石巻市内の呑み助たちは行くところに困らなかったはず(ひょっとするとまん防発令の山形や福島から飲みに来ていた?)。家族もちの人は、この貴重なGWを家族サービスに充てたことだろう。

それでも街中には若い人があふれていた。久々の帰省だったのかも。でも彼らはバーやスナックには行かない。居酒屋とカラオケ店だ。そっちは賑やかだったと思う。古井戸のある昭和感漂うわが横丁は閑散としていた。

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初めて飲み放題をやってみたけど誰も使わなかった。というかそこまで飲まないんだね。飲んでも3杯なのであまり意味なし。1h1000円くらいじゃないとダメかもしれない。でも、飲み放題プランは普段でもやりたいんだよね。今後の課題としよう。

いろいろ考えて、山小屋はやはり2軒目3軒目の店。アルコールにしろ食事にしろ、こちらが提供したいと思うものと、客が求めるものとをマッチングさせないといけない。それをアジャストするのは1年では短いのかもしれない(平日もやったら別だが)。

それと、近くの1軒目の店(六文銭さんや松バルさん)が元気に営業してくれないと本当に困る。あの2軒が営業しないと、この横丁まで人が流れてこないからだ。そこは2軒目3軒目の宿命だ。日本製紙の工場長をしていたFさんから聞いた話だが、工場近くの居酒屋「とん平」のマスターが言っていた話として「うちは日本製紙さんの煙突に止まるセミみたいなものです」と。工場が元気に操業してくれないと、周辺の店はあがったりだという話。

飲食店は、店が出す食べ物がおいしいだけでは集客できない。街のなかで人の流れがあり、そこから流入してくる客を想定し、売り上げを確保しなければならない。GWという大きなイベントを通過して、さらにまた課題が見えてきた。

連休後半は好きなことをして滋養を高めます。ご来店、まことにありがとうございました。

まもなく1周年!

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あっ!

 

という間の1年。まるで実感がない。1年365日、そのうちいったい何日営業しただろう? そのうち数えるけれど100日やったかどうか。これでは税務署が「あなたのは趣味だ」と言うのも頷ける。家賃回収すらままならないのに、さらに交通費が経営を圧迫する日々。儲けようと始めた店ではない。石巻で何ができるか、叩き台に載せてみたかった。それなりの手ごたえは感じているつもりだ。

まずこの一年間、元気に通い続けられた。正直、自信がなかった。月イチ帰省とは次元が違う。東京の会社仕事をやっつけて週末往復900キロ。新幹線やバスは滅多に使わずマイカー通勤ばかりだったので休む暇がなかった。バイク通勤は3回あったかな。

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石巻に帰る頻度が高まったのはウェルカム。苦痛とは思わなかった。言うとみんな驚くけどね。まぁよくやったと我ながら思う。

いろんな人と出会えた。元々知り合いは当然ながら、店をやったことで初めて出会えた人とのご縁が貴重だ。同級生の存在は大きい。幼なじみはもちろん、これまであまり話さなかった同級生が足繁く通ってくれるのがうれしい。

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反省点は料理。考えていたことの半分もできなかった。糠漬けも燻製も途中で放り投げた。仕込みの時間が取れないんだもの。2年目はもう少し工夫したい。

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あと、定刻前に閉店するのも反省。周りのママから「店にいるのも仕事だよ」と諭されても、23:30を回るとソワソワする。いいや、閉めちゃえと他店に向かう。これを我慢して、さらに2時くらいまで店をやったら、山小屋の立ち位置、存在理由は違ったかもしれないが、月金は普通の会社員なので体力的に無理だ。東京から通っているうちはやめておこう。

アニバーサリーとかは苦手なので大々的にはやらない予定。ご愛顧に感謝して飲み放題やドリンクサービスはやる。さてこの連休はどんなことになるやら。乞うご期待。

門小のためならエンヤコーラ

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4月3日、震災遺構「門脇小学校」がオープンする。わが母校。門脇にあった旧実家からは徒歩5分で行けた。南浜に両親が移り住んでからは市内で教員をしていた叔母に貸していた。ともに震災で流され、南浜町の土地は居住不可となり公園整備のために売却したが、門脇のほうは高盛道路の山側なので居住可となり兄と相談して持つことにした。

「新門脇区間整理事業」で換地され、40坪あった土地は減歩され30坪になった。あまりに狭いので南浜を売った金で倍の62坪にした。デベロッパーのオオバに地図を見せされ「空いてますからどこでもよいですよ」と言われ、目に入った門小すぐ東側の土地を選んだ。門小の隣は西光寺墓地(元門脇保育所。そこにも通った)で今は墓地駐車場。わが家の墓もそこにある。角にお地蔵さんがあり、その隣だ。昔は北上無線がありキンモクセイが咲いていた。地蔵構由来碑は母方祖父の松本得蔵が建てたものだ。門脇に土地を有するにはここしかないと思った。

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できるならばここに家を建てて店をやりたかったが、震災から11年経っても街らしい風景は一向に立ち上がらず、再開発後に建った家も、点在する空き地も「売物件」の看板が目立つようになった。家を建てて戻ったり将来戻る予定で土地を売らなかったりした元住民が高齢になり、次世代が売りに出している。うちも似たようなものだ。

そんな中、門小遺構の責任者である市の室長が高校同期で、その彼から「お前の土地を門小に貸さないか」と言われた。飛び上がるほど嬉しかった。何の役にも立たなかった土地が、母校の役に立つ。「もう売れなくてよい、この土地と心中だ」と一も二もなく快諾した。

指定管理者の石巻伝承の会Oさんと会ってスペースを確認、砂利も敷きたいとのことだった。門小スタッフでやると言われたが、オープン前で忙しいのに、卒業生として地主として、そんな手間をかけさせるわけにいかない。「自分でやってみよう、それが門小への応援になる」と、リモートワークの月曜に丸一日かけて作業した。

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朝一番で砂利屋に電話して2トン車1台分を発注、午後一に来てくれるという。ホームセンターで防草シートと止め具を買い、家からハンマーとカッターとブロックを積み込んで現場に直行。この日はまた風が強かった。ロール状のシートを貼ろうとすると風で舞い上がるのを押さえるのが大変だった。一条貼ったところに砂利屋のトラックが来た。駐車スペースを示してそのすぐ後ろに下ろしてもらった。税込7000円ポッキリ。

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途中で風上から貼ると楽なことに気づいて、そこからはスムーズに貼れた。あとはひたすら砂利を撒くだけ。砂利の山に片足を乗せて点スコップでジャラジャラと撒く、撒く、撒く。1時間も撒いてると黒いシートが見えなくなる。さらに1時間撒く、撒く、撒く。砂利だけで2〜3cmの厚みが出たろうか。ここまででひとまず作業終了。あとは門小スタッフさんに任せよう。スコップをお地蔵さんの裏に隠してきた。
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作業中にTさんと西光寺の住職に声をかけられた。Tさんは「売るのはもったいないよ。門小ができればこの町は変わるから」。住職は、一人作業しているのを見て「がんばってんなぁ」と車の中から笑っていた。
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自分の土地なのでいかようにもできる自在さ、門脇の土地を有効活用できる喜び、母校門小の役に立ちたいという自我、あらゆる感情が湧き出てくる。違う場所に家を買ったのでこの土地は早く売らないといけないのに、愛おしく思えて仕方がない。売りたくない。
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たしかにこの門脇に「街」はできなかったが、3月末には高盛道路や北上川対岸に渡る大橋が開通する。一気に利便性が高まり、この門小がオープンすれば見学者がやってくる。広大で殺風景な公園と焼けただれた校舎しかない門脇南浜にどれだけの「観光」客が訪れるかわからないが、町の様相が大きく変わりそうな予感がしている。楽しいことではないが、受け入れなければならないこと。その流れの中に自身を置いてみたい。売らないで済む方法を模索しよう。駐車場に貸すのは、その第一歩かもしれない。

日本製紙の煙突に夕陽が傾いてゆく。東京に戻らねば。温泉でひとっ風呂浴びたかったが、汗だくのまま帰るしかない。えも言われぬ充足感に浸りながら門脇をあとにした。

まさか一人で砂利を敷くとは思わなかったが、門脇に地蔵構由来碑を建てた得蔵じいさんが隣で見ていると思えばがんばれた。ただの砂利だが、俺にとってはじいさんに負けない立派な記念碑だ。ここから物語を始めたい。

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3/19(金) 山小屋は無事でした

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3月16日の福島沖地震震度6弱を記録し津波注意報が発令された石巻。東京も気持ち悪い揺れだった。どこかで大きな地震が起きたその余波的な予感。いつもそう思うようにしているが的中するのも嫌なものだ。

メールやLINEで親戚の状況を聞くと、激しく物は落ちたが何とか大丈夫とのこと。3.11より激しい揺れで、これは津波が来るぞと覚悟したという。友人は「1000年経ってねーじゃん!」と叫んだらしい。実際は多少の潮位変化で済んだが満潮時の午前3時まで起きていたとか、寝る場所を確保するのに片づけ作業に終われたとか、寝不足で仕事に行ったらそこでも片づけだったとか、大変だった。

3.11もそうだが、そこにいないことの自責が今回も感じられた。ともにつらい体験を有してこその絆。飲んだくれてアパートに帰って寝る生活ならともかく、店をやり、家を買い、今年はいよいよ住民票を移そうと言ってるのに、また外された。

それより店のこと。発生後、スナックママに片っ端からLINEしたが、水曜日のド平日で時間が遅かったので開けていた店も少なく、報告が来たのは翌日。とにかく怖かったという。あの日のフラッシュバックなのか膝の震えが朝まで止まらなかったという。カウンターの中でボトルやグラスが倒れて片づけが大変だと嘆いていた。2階ハッピーエンドもボトルが全部カウンター内に落ちたと言う。そんな中、斜向かいおり姫ママは「うちは全然。知り合いの路面店も同じ。1階と2階とじゃ揺れが全然違ったみたい。山小屋さんも大丈夫でねのすか?」とのこと。

新幹線で帰る予定が脱線事故で不通となり急遽クルマで帰ることにして、金曜深夜に家に着いた。翌土曜午前に店に行き「南無三」とばかりにドアを開けた。あれー? と呆気にとられるほど大したことはなかった。

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(高校恩師の中瀬の絵が落下。植木が落ちて土が散乱)
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(チェイサー用の百均グラスがカウンター上に落下破損。この方向に揺れたか?)
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(全滅だろうと思っていた絵は一枚だけ落下。後ろを軽く留めるだけでも有効だ)
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(大きな本はさすがに落ちている。佐立るり子の絵が落ちたか。ゴメンね)
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(カウンター内。グチャグチャに見えるが棚の荷物が落ちた程度)
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(厨房奥のレンジ台が傾いていた。やはりこの方向か)
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(メニューのイーゼル珊底羅大将が身を挺して守ってくれた(笑))
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(ボトルは全部セーフ。ストッパーが効いている。揺れの方向が90°違うのかも)
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(一番心配だったスピーカーとTVモニターも無事。大きなものを吊るすのはよそう)

午後から不動産とリフォーム打合せだったので30分ほどしかいなかった。これくらいなら開店前の準備で片づけられると、インスタに無事報告&開店予告をして家に帰った。

LINEやFacebookでひっきりなしに連絡が来る。「石巻は大丈夫? どこにいたの?」。みんな心配してくれるのはありがたい。店をやっていることを伝えている友人からは「ニュースで石巻と聞いて真っ先にあなたのことを思った」と。ありがたいことだ。

災害が多い町、復興の道半ばの町として、これからも石巻という地名はメディアを賑わすことだろう。そこで店をやることの覚悟は相当なものだ。会社員と二足の草鞋でやれるものではない。家もできた。幸い引越し直後で荷物が元々散乱していたので全く被害なし。だが今後はそうはいかない。石巻と一連托生の人生が待ち受けている。それを全うするには東京から魂を完全に移さなければならない。その覚悟は、ありますよ。

3.11のことは書かない

今年も3.11がやって来る。

ブログタイトルを「港町の山小屋便り」としたのは、わが町石巻が2011年の大津波で甚大な被害を受けた被災地からの定点観測的な発信をしようと考えた。こうして店やその周辺のことを書いていても、その志向がプンプン匂うのはやむを得ないことだと思う。

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2008年の門脇小学校

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2011年3月14日の門脇小学校

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2022年2月27日の門脇小学校(震災遺構)

今年も3.11がやってくる。あの年と同じ金曜日で、思うところはいろいろあるが3.11のことを直接書くのはよそうと思う。震災のことを、この11年の歩みを、知ってほしいという気持ちは誰よりも強いつもりだが、書き言葉では伝えきれないというか、何をどう書いても不全感が募るだけで、それはまるで、ザルで風呂桶の水を移しかえるような行為だ。それをも厭わないという気概がないでもないが、今はとにかく時間がなく(東京と石巻の二重生活がかくも忙しいとは!)、申し訳程度の記事しか書けない。ここで僕が駄文を書かずとも、石巻のことを伝える媒体はいくらでもあるので、そちらに全権委任したい。

今はとにかく新居のことで頭がいっぱいだ。長いアパート暮らしから脱出し、我が家と呼べる家を手に入れた喜びに満ち溢れている。たぶん、これは誰にもわからないだろう。11年間ずっと燻っていた思いがメラメラと燃え上がるような気分なのだ。

 

※震災前の日付でアップしようと下書きに保存していたら3月16日に福島沖の大地震が起きた。不完全だがひとまずこちらをアップする

山小屋を続けるインフラとしてのわが家

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石巻での寝泊まりは、2013年からずっとアパートだった。最初に借りた山下のルナシー(上記写真。左は兄貴)は家賃3万円。2年して更新しようと思ったら「被災者向けに安くしてきたが元に戻したい」と大家に言われ、それならばと安いアパートに引越した(兄貴主導)。それが今の佐藤アパート。なんと家賃1万8千円。

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いろんなところに書いてるので耳タコかもしれないが、とにかく寒い。橋の上に布団敷いて寝てるようなもの。水道はすぐ凍るしトイレも汲取式だしで、店が終わって疲れてるというのにアパートに帰りたいと思わない。店のソファーベッドも硬いし、いちおう洗濯もできるしで、とりあえずアパートに帰って寝るのだが、朝はだいたい氷点下。ここに帰ったのを後悔するばかり。今の自分にそんな部屋しかないことが、あまりに悲しい。

そんなこんなで、12月頃から一連の思索を経て、中古一戸建をなんとなく探しはじめたら、その気になって「買っちゃえー」となった。中古車でも買う感覚で、家を買ってしまった。築50年を超えているが、僕や兄貴があと30年住めればよい。たぶん底値。いい買い物ができた。

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不動産がほしいとかそういうんじゃない。安らげる場所がほしいのだ。石巻に帰った時に泊まるだけならホテルでよいが朝に追い出されるのがいやだ。自分のふるさとなのにゴロゴロ寝る場所がない(実家が流された)という状況をどう変えるべきかと考え、アパートを借りることにしたのが2013年。せいぜい2、3年と思っていたら9年も借りた。もちろん最後の2年は山小屋をやるためのベース。それまで月1回程度だったのが毎週泊まるようになり、生活の中の寝泊まりの比重が高まった。安心安全に眠れる部屋があってこその山小屋経営なのだが、佐藤アパートはその基盤たりえなかった。借りた目的が途中で変化したからアパートのせいではない。店をやるインフラとして、それ相応の「家」が必要になったのだ。

いや、山小屋は関係ないだろう。この石巻に、わが家がほしかった。土地は門脇にあるけれど家を建てるまでに覚悟が決まらない。思い描いたような町の復興とはならなかった。ならば新築は諦めて中古を買えばよいと考えたとき、ものすごく楽になった。わが家というものに、肩の力が入り過ぎていたのだろう。門脇でも南浜でもないが、住めば都、住めばわが家、だ。

これから本格的な引越し作業に入る。3.11には兄貴も帰るので一緒に荷物運び。楽しみだ。この11年間、ずっと悩まされてきた問題がこれでスッキリ解決した。次なる人生再建に着手します。