港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

門脇でテニス!

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2020年に休止したテニスを再開した。わが家(門脇の旧家のほう)があった場所の目の前、日和山の南側にある石巻ローンテニスクラブで、だ。

2020年の夏でいったん辞めた。コロナ禍初年度でまだ店を始める話すら出ていない頃だ。緊急事態宣言下となった春から在宅勤務が多くなったのをいいことに、通っていたテニス倶楽部のレッスンをガンガン入れたら、やり過ぎのせいか膝を痛めた。夏真っ盛りの午後、レッスン中に膝の感覚がなくなり急に走れなくなった。どこか腱や靭帯でも切ったかと思って整形外科で診てもらったら膝の軟骨がボロボロで神経を痛めているとのことだった。膝に溜まった水を抜きヒアルロン酸注入の治療を続けた(ヒアルロン酸はあまり効果がないと後で聞いたのでやめた)。店の開店準備を始めてからは週末の用事をすべてキャンセルすることにして倶楽部に休会届を出した。

膝の調子がよいときにバッティングセンターのオートテニスで汗を流したり、ソフトボールチームのテニス仲間とコートを借りて遊んだりはあった。昨年末から本格Uターンに向けた準備を進めるなかで「やっちゃえ」とばかりに、ラケットを持って週末午前中に行ってみたらすぐ仲間に入れてもらえた。前日に深酒したかどうかにもよるが、土曜や日曜の午前は基本的にフリーだ。そこを使えばよい。

知り合いなど誰もいないと思ったら、倶楽部オーナーの本間さんが「孝子さんの甥っ子さんです」と紹介してくれた。孝子とは母の妹で、小さい頃から隣に住んで可愛がってくれた叔母である。震災で亡くなった(行方不明)。中2の頃に「あんださテニス教えてけっから」と、まだ開業して間もない石巻ローンテニスクラブに連れてこられ、ウッドラケットの振り方やボールの打ち方を教わった。当時はバレー部で部活が忙しくテニスをする機会はそれほどでもなかったが、学校では誰もしていない硬式テニスをやってることが楽しくて、叔母の誘いを楽しみにしていた。通っていた塾の先生もいて「ほどほどにしろよ」とからかわれたり、高校時代には倶楽部メンバーの社長さんにアルバイトをお願いしたり(スキー教室の費用捻出。真冬の魚すり身工場でのバイトは死ぬほどつらかった)。

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震災直後、がれきに囲まれ遺体捜索が進む門脇地区のど真ん中でポーンポーンとボールを打つ音が聞こえると「こんな状況でテニスなんか」と思わないでもなかったが、昔からよく知っている倶楽部なので複雑な思いだった。あれから10年。封印とか解禁とかではないが、「ここでテニスをやろう」というアイディアか自然と浮かんだ。10年かかったのかもしれない。

テニスをしていると、近くに住む知り合い(昔のご近所さん)が手をふってくれる。テニスが終わればクラブハウスで昔話に花が咲く。こんなに楽しいことはない。

どうだろう、ここで働けないだろうか? 昼はクラブハウスで管理人(時々テニス)、夜は山小屋。なんて贅沢な暮らしだろう。冗談半分にしても、そんな生活を夢想しているのは確かだ。東京で会社勤めしている場合じゃない。早くここに戻りたい。山小屋をやったおかげで、この心境になれた。早く石巻に住みたい。帰りたい。でもそのためには身辺整理が…。やれるかどうかわからないが、じっくり考えてみよう。

山小屋は立町? 小柳町?

東京なら新橋、札幌ならススキノ、仙台なら国分町、福島なら置賜町(おきたまちょう)、秋田なら川反(かわばた)…全国津々浦々に、名を馳せる飲み屋街がある。

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さて、わが町石巻は…。ここで言葉に詰まってしまう。小柳町(こやなぎちょう)か、寿町(ことぶきちょう)か、立町(たちまち)か。個人的には小柳町と言いたいが、昔の呼び方で今はお年寄りかタクシー運転手しか使わないだろう。隣の寿町のほうは商店会や通りの名前にもなっているし、スナックビルが立ち並び(津波のダメージも比較的小さかった)、飲み屋街として映(バ)エルのは寿町のほうだ。

昔は駅寄り、羽黒山階段下の小柳町が中心だったが、古い建物が多く津波で打撃を受けて更地化した。わが山小屋もこの小柳町に属する。斜向かいのスナックおり姫ママは、タクシーを呼ぶときに「小柳町の」を必ず付ける。そうすると「マルシン側ですか、六文銭側ですか」と来る。古井戸のある横丁のどちら側に車を着けますか?という意味だ。

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柳町も寿町も、正式な町名ではない。住所は「立町」である。はやしやホテルの北側、かつてはアーケードがあり多くのショップが軒を連ね、川開きのパレードが行われる石巻の目抜き通りが「立町通り」だが、今はシャッター通りとなり、買い物客はインターチェンジ近くのイオン周辺に奪われてしまった。

石巻の立町は仙台でいえば一番町であり、一本裏通りにある国分町に当たるのが、小柳町であり寿町なのだ。仙台のような大都市と比較しても仕方ないのだが(一番町も国分町も正式な町名である)。

山小屋の住所は立町だが、「どこにありますか」と訊かれたら「小柳町です」と答えたい。「では小柳町はどこですか?」と訊かれたら「寿町と羽黒町の間、寿福寺の北側一帯です」と答えよう。もう一度、小柳町石巻最大の歓楽街として認識してもらえるように、微力を尽くしたい。

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(震災前の寿町界隈)

取材お断りの店

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当ブログの話題があまりに卑近で幼稚に思われたのでnoteを始めることにした。自分のアカウントを1年前に作って放置していたので山小屋用に作り替えた。

https://note.com/yamagoya986/

いきなり2本書いた。ブログと大差ないね。2本目の記事に書いた、一橋大生が谷保にスナックを開きたいというクラウドファンディング朝日新聞で知ったこともnote開始の原動力となった。その女子の名前で検索したらnoteが出てきたからだ。新聞記事に書かれていることが、ほぼそのまま書かれていた。

https://digital.asahi.com/sp/articles/ASQ2156Z4Q10UTIL02C.html

なるほどそうか。いや、前からそんな気がしていた。新聞の街ネタはtwitterやnoteでフォローを集めているアカウントに取材していることが多い。ちょっと変わったことをやっている人間を探すには手っ取り早いツールだ。俺も店のことをグダグダ書いてればブンヤの目に留まるかもしれぬ……なんて薄っぺらいことは考えてません。だって会社にバレたらどうなるか。内緒でやってるうちは取材お断りなのだ。

1本目にも書いたが、新聞記者に話したところで先入観ストーリーに落とし込まれるだけでロクなことはない。ただ飲食店のような商売をやる以上、こうした浪花節調、カタルシス満載のストーリー構築は必要悪かもしれない。取材を受けて「そうじゃないんだがなぁ」と苦虫を噛むところをグッと堪えて「そんな感じっス!」とニコやかに応待すれば店の好感度も上がることだろう。

あーいやだ。絶対にしたくない。なぜ山小屋なんて店をやってるのか、自分でもよくわかっていないのに、初対面の記者に少し話しただけで、2000字程度の記事にまとめられるのは耐えがたい。

2012年だったか毎日新聞の取材を受けたことがある。菩提寺S寺に行ったら記者がいて、住職に「何か話してやってけろ」と紹介された。よくわからず、とりとめなくその場で自分の境遇を話した。その中に2011年8月の川開き祭りと灯籠流しのことを入れたら、少し食いついてきた。記者は、今まで聞いたことのない話が大好きなのだ。詳細を覚えていないが、東京に戻ってからもメールやりとりする中で俺がその記者に怒ったことがあった。伝わらないもどかしさ、短時間で取材を済まそうという姿勢などが耐えられなかった…。あ、この続きはnoteで書こう(笑)。

ついでにtwitterも作った。noteやブログを更新したらtweetする設定。フォローもないだろうし、記事も読まれないと思うが、やらないよりはマシ。山小屋の存在をあちこちに広める方策はとっておいたほうがよい。取材申し込み窓口なんかじゃなく、お客さんを呼ぶための。

石巻に面白いバーができたってよ」

こうしたSNSを見つけた好事家の呑み助が数人集まってくれればよい。マスコミお断り。学者先生もライターもできれば来てほしくない。ネタ探しはヨソでやってけらい。

三種の神器 その1〈スポーツ自転車〉

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11月記事「中学生 3種の神器」各論その1。

小5の時に26インチ格安ジュニアスポーツを買ってもらった。確かイノウエというマイナーメーカーだった。ヤフオクで調べたら出てきた。

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写真は22インチフラッシャー付きなのでやや違うがフロントスプロケットのオレンジ花型の飾りは見覚えがある。「なんで花なんか」とドライバーでバリバリ壊して外した。小5の頃から好みにカスタマイズする癖がついていた。

ミヤタや丸石などの有名ブランドではなかったが、トップチューブに大仰な変速機とフロントキャリアに2灯式ランプが着いていていれば立派なジュニアスポーツ。フラッシャー機能付きの真正ジュニアスポーツに乗る友人が羨ましくなかったと言えば嘘だが、変速機を駆使してクラスの友達とどこまでも行ける自転車は素晴らしい相棒だった。小6になるとスピードメーターやサイドミラーを後付けしてゴチャゴチャとなっていった。このあたりはデコトラ発祥の地石巻ならではのカスタマイズと言えようか。

中学時代もこの自転車。買ってもらってまだ2年なので中学進学時に自転車を新しくする同級生は、金持ち以外ほぼ皆無だった。後ろの荷台に折りたたみカゴをつけてバッグを入れて走ったがバランスが悪くなるので厄介だった。バッグはもちろん、当時流行ったマディソンスクエアガーデン。バレー部の試合などで他校に行くのに使ったりした。部活が忙しくて自転車はあまり乗らなかった気がする(徒歩30分だが自転車通学は禁止)。

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高校に入ると自転車通学が許された。関東の大学に入り家を出た兄貴の自転車(フレームの大きい無印スポーツ車)に乗り換えた。そして6月ボーナス期、念願の本格スポーツ車を買うことになり、親父と一緒に中村サイクルに行った。ブリヂストン店なので、当然ながらロードマンをメインに展示していた。たしかこのRM-601。ロードマンはスプロケットのデザインを更新することでモデルチェンジしていた。

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ロードマンが好きな人・乗っていた人には悪いけれど、これには絶対に乗りたくなかった。前にも書いたが、クルマで言えばマークII(家の財力を示すだけで、クルマとしての魅力に欠けている)。もっと違う自転車に乗りたい。ほかにないかと壁に吊るされている自転車を見ていると、渋いゴールドのサイクリング車が目に止まった。ダウンチューブには幾何学的なロゴ。モノックス?

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2割引で46000円と49800円のロードマンより安かった(正価57800円なのでロードマンより格上)。26インチとホイール径が一回り小さいがフレームが大きいので当時の身長(180cm)にもぴったり。ディレーラーなどのパーツはシマノDEORE、今はMTB専用モデルとなった上級パーツの初期型が着いていた。前後に泥除けフェンダー標準装備、カンチレバー式ブレーキ、フロントキャリア、砲弾型ランプ、後ろにも灯火ランプが着く(リアのダイナモから並列接続)。フレームはクロモリ鋼。ボディカラーは明るい青や緑がよかったが売られていたのはゴールド現品限り。渋い色なので売れ残っていたのかも。

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今のようにいろいろ調べて買う癖はまだなく、ほかの店に見に行くこともせず1軒目で即決(うちは中村サイクル御用達なので他店で買うことはありえない)。こんな決め方ではあったが、ロードマンよりちょっといい自転車が買えたので内心ガッツポーズをしていた。

MONOXはいわゆるスポルティーフランドナーとレーサーのいいとこ取り)に当たるのだろう。さらに格上のユーラシアやアトランティスランドナー(長距離用)となる。近所の同級生3人組が、ロードマン、ユーラシア、アトランティスでわが家の前を通って通学していた。そこに俺のモノックスが加わればブリヂストン四天王勢揃いとなるが、そのためにあいつらと一緒に通学する気にはなれなかった(笑)。

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26インチ、リムは1 3/8と平凡なホイールとタイヤ。いま流行りのレーサーとはワケが違うけれど、高校生には十分すぎるスペックで、休日は市内を走り回った。1年でテニス部を辞めて美術部に移ってからは風景スケッチに適した場所を探して稲井や須江などの里山を回った(後述するカメラを手にして)。

買って半年経った頃、走っていたら急にクランクが回らなくなり激しく前転したことがあった。DEOREの変速が壊れてチェーンがスプロケに絡まっていた。すぐに中村サイクルに診てもらったら申し訳なさげにディレーラーごと無料で交換してくれた。メーカーはSIMPLEXというダサい名前。タダだならしょうがないと思ったが、あとでフランスの銘品「サンプレクス」と知った。たまたまパーツが余っていたのをくれたんだろう。別の友人は当時この店でエディメルクスを買ったというから意外とプロユース、ヨーロッパに視野を据えた店だったのだろう。今も元気で恵み野で店をやっていると聞いており頑張ってほしい。

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86年春に一浪して東京の大学に入り、MONOXを寮まで送った(門脇のバイク屋桜井輪業に頼んだ)。隣の部屋のNも郷里花巻から同じ型(同じゴールド!)のMONOXを持ってきていて、それがきっかけで親しくなった(今もバイク仲間だ)。寮から大学までの片道30分の自転車通学を楽しんだが、哀れな末路を迎えることになった。国電中央線(この頃はまだ国鉄)の某駅前西友前に停めて鍵をかけないまま離れたら盗まれてしまった。なぜか(こんなシートの高い自転車なんかに乗る奴はいない)と考えてしまった。今で言う正常性バイアスである。なんと勿体ないことをしたか。おそらく大学4年間のうちに乗り潰して捨てる運命にあったとは言え、石巻青春時代の掉尾をともに過ごした相棒とあんな形で別れるとは…。自身の愚かさをただただ呪った。

大学時代、それ以後に乗った自転車(スポーツ)は下記。

ブリヂストンRADAC(1986〜87。大学クラスメイトから2万円で購入。これもすぐ盗まれた)

・ノーブランド700cレーサー(1987〜88。立川フロムで39800円。初めての700c仏式バルブ。これもすぐ盗難)

・GT Timberline(1988〜? マルイのローンで49800円。大学で最初にMTBに乗った男となった思い出の自転車、ハテいつまで持っていたっけ?)

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※90〜2000年代はバイクばかりでスポーツ自転車には乗らずママチャリが多かった

・GIOS MTB(2008〜2010。家を建てた時にヤフオクで購入。庭に置いてあまり乗らなかった)

・中華製ミニベロ(2010〜11。3.11の時に車に積んで石巻に行った。そのまま仙台の叔母宅に置いてきた)

・MARIN MTB Muirwoods(2012〜2018。サイクルベースあさひアウトレットで。ソフトボールを始めたのでグラウンドに通うため)

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・メーカー不明スポルティーフ(2020〜現在。別記事で書く)

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この項ではモノックスについて書きたかった。石巻がこんな町ではなかった何十年も前の話。平凡な港町を平凡な高校生が自転車で走り回っていた当時のこと。ほかに思い出すことがあれば書き足してみたい。

1/10(月祝) 店を休んで藤枝・豊橋へ

正月2週目は成人の日で三連休。店を開ける気満々でいたが、おり姫ママが「まず来ないでば」と言う。確かにうちらは二軒目三軒目の店。新成人の「わげしたぢ(若い人たち)」は、駅前チェーン店やカラオケに行くので、スナックやバーはお呼びではない。ほかの客も2週目は正月疲れもあり休みたいはずだ。俺も休みたい。休むか。休もう。休まねば。

でも休まない。行きたいところがあった。藤枝だ。旧知の日本画家北村さゆりさんが、郷里の博物館で個展(回顧展)をやっている。車でワイワイ行きたいので美術仲間2人を誘ったが、仕事で忙しいと断られた。なんでぇ、ノリが悪いなぁ。ということで最近お気に入りの各駅停車の旅。しまった、余った青春18キップを売らなきゃよかった。

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文学館特別展「藤枝出身の日本画家 北村さゆり展」/藤枝市ホームページ

私鉄の小田急線で小田原に行き、東海道線を乗り継ぎ、西焼津からコミュニティバスに乗って蓮華寺池公園へ。(中略。後ほど加筆)

さゆりさんの車で藤枝駅まで送ってもらい駅近くの居酒屋へ。腹がへっていた。東海道線は通勤用に作られ、なかで食事しにくい車両なのだ。刺身盛りに焼津名物のカツオ血合竜田揚げなど。


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さゆりさんから島田宿泊を勧められたが適当なホテルがなく浜松にした。朝食付3000円、激安。20時過ぎにチェックインして繁華街の千歳町を徘徊。看板には「パブ」「ラウンジ」が目立つ。どこも高級そうだ。和服姿で客寄せに立っている女性に話しかけてみた。

「お姉さんのところはいくらなの?」

「80分で15000円ですね。ラウンジはこんな感じです。パブはもうちょっと安いかな」

「なるほどねー。カウンターだけの店ってある?」

「それならスナックですね」

やはりスナックしかないようだ。少し歩いて「エリ」という店に入った。カウンターに一人来ていた同世代のリエさんと意気投合して閉店まで楽しんだ。


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リエさんは車で来ていて、代行運転で次の店に行くという。一緒に行くというバイトのタカちゃんに「よかったらいかが?」と言われ、3人で移動(ママのエリさんは帰った)。浜松は代行でハシゴするのか。すごいな。

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行った店は「ハノン」。郊外の広い店でボックスで7~8人が新年会をやっていた。3人でカウンターに座るもリエさんは撃沈。タカちゃんとずっとしゃべった。3時ぐらいまでいたろうか。会計で全部払おうとしたら、先に帰ったリエさんが全部払ったという。うわーなんと。タカちゃんが「こっちも楽しかったから。よかったらまた店に来て」と。まさか浜松でこんな楽しい夜になるとは。

タクシーでホテルに帰り着いたのは朝の4時前。翌日は豊橋郊外に11時まで行かなきゃならない。頑張って7時半に起きて9時発の電車に。豊橋でトヨテツ(豊橋電鉄)に乗り換え某所まで(詳しく書かないが、とてもいい時間が過ごせた)。13時にそこを出て今度はバスに乗り豊橋駅へ。豊橋のバスは運転が荒いなぁ。案内された駅近くのお寺に行き墓参り。もう少し時間があればチャオ(あんかけスパゲティ専門店)に行けたのだが14時の電車に乗らないといけない。菜飯と田楽でもよかったなー。


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17時半に湯河原着。真っ暗だ。バスに乗り奥湯河原のホテルにチェックイン。リミットの18時直前。食事は20時からというのでさらに奥のほうまで歩き、公衆浴場「まゝねの湯」へ。二・二六事件(東京と別部隊の殺傷事件)のあった伊藤屋別館「光風荘」、湯河原町立美術館の近くを散策。翌日に観に来たかったが、この時点で娘から「明日送迎を頼みたいので10時半までに帰れますか?」と言われていて、湯河原観光は別の機会になった。


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朝6時に起きて7時の食堂開店を並んで待ち、速攻食べて速攻チェックアウト。なんとか10時過ぎに帰宅できた。車を出して着付教室で娘と合流。晴れの舞台に立ち会えた。

店を休んだぶんだけ、てんこ盛りの連休。藤枝、浜松、豊橋、湯河原と充実した時間が過ごせたうえに、父親としての責務を無事果たすことができた。いつもながらのパンパンの旅程。隙間があれば何でも詰め込む悪い癖は死ぬまで治りそうにない。

ギャランGTOのバックシャン

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何を書こうとしているのかわからんがこのタイトルで書き出してみる。

昔からクルマが好きだった。物心ついた頃には身の回りにクルマのオモチャがあった。電車でも飛行機でもなく、4輪車。箱型ボディの四隅に着いたタイヤを回らせてどこへでも行ける乗り物をこよなく愛した。

なので、わが家に初めて自家用車が来た時には狂喜乱舞した。映画話を書いた記事の「サウンド・オブ・ミュージック」を観たあの小2の12月。親父のボーナスで4年落ちのカリーナ4ドア1400DXを買った。当時40万円と聞いた。ボディーカラーはメタリックゴールド、ナンバーは「宮5 み 53-06」、8トラカセットプレイヤー付、流麗な縦型リアランプ。完璧に覚えている。カリーナは、カローラとコロナをつなぐポジションとして登場、イメージキャラクターに千葉真一を使い「足のいいやつ。カリーナ」とスポーツ性を強調した。のちにセリカとコロナの兄弟車扱いとなった。

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わが家のクルマについては別記事で書くとして、ここで書きたいのは、絵を描くのが大好きだったということ。保育所にいた頃から鉛筆と紙さえあれば何時間でも描いていた。特にクルマは、街中を走るクルマからその車体や機能を覚え、ミニカーを買ってもらい、それを絵に描いていた。セダン、クーペ、バン、トラック、ダンプカー、タンクローリーコンクリートミキサー…。

描くのはだいたい横向き。タイヤは正円で描きやすいし、ボディー形状の特徴が出やすい。だが自分はクルマの全てが好きなので、クルマが最も美しい角度から見たいし描きたい。小2の冬、というか3学期の押し迫った頃だと記憶する。教室で、天から何かがフッと降りてきた。

「描ける! クルマを斜めから描けるぞ」

急にイメージが沸いた。そのクルマは三菱ギャランGTO 2000GSR。ルーフからリアウィンドウが緩くスラントし、トランクフードのエンドが上向きにピンと跳ね上がる「ダックテール」スタイル。トヨタセリカリフトバック(今でいうハッチバックGTOはトランクが独立する普通のクーペだった)と同様にアメリカ70年代マッスルカー(例えばフォードマスタング。わが家のカリーナもアメリカ車の影響を強く受けている)を真似たルックスだが、小2生にはそんな理屈はどうでもよく、カッコいいクルマとしての印象がとにかく強かった。

リアのコンビネーションランプが屈曲している造形の妙にも惹かれた。初代GTOトヨタセリカいすゞ117クーペに対抗してDOHCエンジンを搭載するMRがフラッグシップ)からセミモデルチェンジを経て、コンビネーションランプがややゴージャスになった(セリカ化したとも言える)。さらにはオーバーフェンダー化もされ(一番上の写真参照)、いわば族仕様が強まった。


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小2ながらに描きたかったのは、ダックテールとリアコンビネーションランプの造形美だったので、必然的にリアビューとなる。休み時間だったか授業中だったか、一気呵成に描いた。記憶では画面左上から右下に向かってリアを向けたフォルムだったと思う。それ以降、その向きではほとんど描かなかったが(右上から左下に向けてフロントを向けるフォルムで描いた。右利きにはそれが一番描きやすい)、天から舞い降りてきたイメージがそれだったのだろう。描ける、描ける! 俺はひょっもして天才か? きっとそう思っただろう。その絵はさすがに残っていないが、会心の出来栄えだった。

※参考図版(MR)。この時は下図のような右下向きフォルムで描いた。以後は上図の左下フォルムが主流

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クルマを斜めから描くうえで難しいのはタイヤだ。薄い円筒形のタイヤを楕円に描いて、それを覆うタイヤハウスをうまく表現できたかどうか。こちらはカッコいいクルマをカッコよく描きたいのだ。カッコよく描けなければ意味がない。そこも何とかなったと思う。立体を三次元で捉える力が身に着いていたのかもしれない。遠近法はどうだったかしらん?

クルマを三次元的に描けたうれしさから、ありとあらゆるクルマを描いた。折しも時代(1976~)はスーパーカーブーム。漫画「サーキットの狼」が大ヒットし、主人公吹雪裕矢が乗るロータス・ヨーロッパ、ライバル早瀬左近のポルシェ・カレラRS(これもダックテール)、レーサーを目指す交通機動隊員沖田のフェラーリ・ディノ246GT、隼人ピーターソンのトヨタ2000GTなど、見たことがないクルマが画面狭しと走り回るコミックの虜になり、素材には困らなかった。4年になると「2組のYはクルマの絵が巧い」と噂が広まり、休み時間には机の前に行列ができた。みんなノートを開いて一例に並んでアレ描けコレ描けと注文する。だいたい、ランボルギーニカウンタックかポルシェターボだった。フェラーリ365GTB4ベルリネッタボクサー、同365GTB/4(デイトナ)、マセラティボーラ、ランボルギーニウラッコ、デ・トマソパンテラGTS。頭の中にストックができていた。みんな喜んで教室に帰っていった。

個人的に一番好きだったのはランボルギーニミウラP400SV。60年代末の流麗なプロポーションに魅せられた(カウンタックと同じマルチェロ・ガンディーニ作)。カウンタックの先代に当たり、「サーキットの狼」では裕矢の姉ローザの恋人でF1レーサー飛鳥ミノルの愛車として登場した。

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絵の話ではないが、クルマ好きを象徴する話。3年生で書いた作文が学級通信に載った。「タクシー運転手になりたい」という内容で、おふくろが切り取ってノートに貼り付けていたのが恥ずかしかった。八木山ベニーランドでゴーカートを運転するのが楽しくて、クルマを運転する仕事としてタクシーを選んだ、町の道路を全部覚えるのは大変だが、頑張りたい――とかなんとか。今もなりたい気持ちはある。このときの体験からか、タクシー運転手という仕事に関心が強い。映画や小説、ノンフィクションをよく見たりする。見知らぬ人を乗せてドライブする職業は、なんだかミステリアスなのだ。

この時もう少し研究熱心だったら、とも思う。いかんせん観察力、デッサン力が乏しい。そもそも努力が嫌いな性質だ。例えばスケッチブックを手に実際のクルマをスケッチすればよいものを(または写真を横に並べて)、記憶を頼りにテキトーに描く怠け癖がこの頃からついていた。友達に描いていた絵も、かなりいい加減だった。もう少し真面目な性格だったら、美大ぐらいは行けたんじゃなかろうか。

小5年ぐらいになると、自分のクルマをデザインしていた。好きだったのは、リアコンビネーションランプのデザインを考えること。ブレーキ、ウインカー、バック、リフレクターをどう配置してスタイリッシュにするか、授業中に考えてはノートにびっしり描いたりしていた。将来はカーデザイナーになりたいと考えたが、親友Fの影響で子供っぽいからと公言を憚り、途中から弁護士志望になった(笑)。

高校で美術部に入ったが、クルマを描くことはなかった。部活となるとアカデミックに走ってしまう(ロックのレコードジャケットは描いたが)。クルマを美術の対象とは考えなかった。中高6年間は部活や生徒会があって、自身の趣味性をうまく醸成できなかった。

いま一度標題に戻る。正直、ギャランGTOが好きだとは思わない。当時はカッコよくても、どこか子供っぽい気がする。ほかの三菱のデザインも好きになれなかった(80年代後半のギャランセダンは素晴らしかった。バブル期に誕生したクルマは捨てがたい)。好きなクルマ(デザイン)については、そのうち改めて描いてみたい。

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1/3(月) 賑わった年末年始

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12/29(水)

前日、無事に仕事(東京の)が納まり朝に出発。今回は青春18きっぷ。9:30新宿発宇都宮線に乗り、数回乗り継いで石巻に着いたのが17時過ぎ。イオンで買い物をして開店。門中のアキラとキョウコが来てくれた。去年、同期会を開いた時の幹事。1年ぶりの打ち上げ。ほかに若めのカップル。蔵王に冬登山に来た(吹雪で断念)ついでに石巻に足を伸ばしたという。山小屋の名前に騙されたという(笑)。アキラたちも加わって談笑した。途中でメニューを見て「おくずかけって何ですか? 食べてもいいですか?」と言われて頑張って作ってみた。この正月に出そうと思っていたのでいい練習になった。

12/30(木)

いつも数名で集まっているという門小門中スタッグ(男だけの)パーティー、今年は山小屋でやろうとワラワラ集まってきた。Nと会うのは久しぶり、というかほとんど初めて話す。小中高一緒でも同じクラスになったことがない同期(常連Yもそう)となると縁がない。それでもいろいろ話せて楽しかった。メンバーの子供たちも集まってきたので貸切にした。いいね。こういうのがしたくて山小屋を始めたのもしれない。

12/31(金)

午後に店を開けてみたら開店と同時にKちゃんIちゃん親子。あら久しぶり。おみやげに手製の甘酒をいただいた。「疲れてっぺと思って」。みんなそういうのだが、疲れている自覚症状がまるでない。人は疲れるとどうなるんだ? だるいとか朝起きられないとか? 一切ないんだけどね。それでも「飲む点滴」と言われる甘酒はありがたい。Iちゃん、書道のほうで忙しそう。店を手伝ってほしいんだけど無理そうだな。

夕方、スクーターであゆみ野の叔父宅に向かったが調子がおかしい。あくせるが吹きも戻りもしない。グリップが回らないのだ。ブイーーンと高回転ながらもスピード出ず。ブレーキで止まる。騙し騙しで到着。ワイヤーが凍ったのかもしれん。車を借りて仙台落合の叔母宅へ。いつもの年越し、兄貴も浦和から到着していた。


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10時まで紅白見ながらご飯を食べて石巻へトンボ返り。0時に南浜津波復興祈念公園でカウントダウン花火が上がるのだ。三陸道は横殴りの雪、50キロ規制。なんとか23:30に間に合ったが南浜は大渋滞。同級生Kと連絡とりながら公園に入り慰霊碑の前で見ることにした。実家跡でとも考えたが、がんばろう看板に近すぎてイベントの華やぎがウザイのでやめた。写真や動画を撮りながら門小LINEに流した。特に感動もシラケもない。みんなが喜んでるところを見るのが好きなだけだ。


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しかし復興公営住宅の真ん前とは。窓の灯りは半分消えている。年寄りが多いので寝てるんだろう。西光寺の蓮の会では「寺として反対」に決めたという。市長は当初、「供養の花火」を言ったらしいが住職は「花火は疫病退散であり供養ではない。簡単に供養と言ってほしくない」と突っぱねたとのこと。120%同意する。結局は復興祈念と医療従事者への感謝に落ち着いたという。新市長の人となりを知らないが「希望の花火」なんてポピュリズムもいいところ…なんて悪口はやめとこ。


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ひどい渋滞を抜けて店に戻ったのが午前1時。そこへおり姫ママが来た。「あけましておめでとう。うちもさっき客が帰ったとこ。お腹すいたからなんか食べさせて」。ハイハイ、深大寺蕎麦で年越ししましょ。そこへbugのユースケ君も加わった。大晦日(もう元旦)のこんな時間に営業してるのは、この古井戸通りの数軒しかないのかも。一般客は来そうになく、ご近所さんと一緒に新年を迎える。今年もよろしくお願いします。

二人とも店に戻り一人きり。かまぼこを切ったり芹を湯がいたり正月の仕込み、店の掃除、表の雪かきなどをした。朝5時までいたが客はなし。雪が降っちゃったしね。それでも元旦の朝を店でのんびり迎えられるのがうれしい。去年までは一人アパートにいた。来年はもう少し賑やかであってほしい。さてどんな一年になるか。

帰ったら水道が凍結していた。窓が少し開いてたこともあるが、湯沸かし器のシャワーにツララができていた。なんじゃこの部屋は。

1/1(土祝)

今年は元旦だけが土日に吸収され、ほかの祝祭日はすべて平日で連休が多いのだとか。それだけ店にいられる日数が多くなるね。

水道が凍結して顔が洗えない。まずはふたごの湯へ。去年も元旦に水道凍結してここに来た。今年はタオルもらえず。

北上ICから石巻港ICまで高速を走り、20分ほどであゆみ野に到着。仙台組(叔父、叔母、兄貴)はすでに来ていた。お雑煮、あんこ餅、おせちをいただく。眠くなったので2階に布団を敷いて眠った。実はこの部屋を狙っている。あんなボロアパートをさっさと出てここで寝泊まりしたい。叔父叔母もそのほうが安心するんじゃなかろうか。車をもう少し使ってよいとのことで借りて店に行き19時から開けた。

誰が来たんだったかな。あ、デザイナーのS君だ。仕事を頼んでる後輩。帰省中に寄ってくれた。それに若い男子二人。もう出来上がってる。若い女の子のいる店を探して迷い込んだらしい。元旦は無理じゃない? ギターを見つけて弾き始めた。ハイボール2杯ずつ飲んで一人1500円と行ったら驚かれた。たしかに石巻では考えられないだろう。若い女の子がいなくてゴメンね。

スマホに何やら着信。おり姫ママからLINE。「ジュンちゃんが腹へったって。何か作って出前してけさい」。がってんだ。深大寺そば大盛、ペペロンチーノ、麻婆豆腐、アジフライ、梅たたきキュウリ。一人で食うのか? 一品ずつ作っては出前を持っていった。ママも一緒に食べていた。そりゃそうか。


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兄貴がアパートに来ているので一緒に飲むかと帰ったらもう寝てた。隣の部屋に布団敷いて寝たが寒くて凍えそうだった。1階はずっと空き部屋。氷のうえで寝るようなものだ。いつものソファーベッドが恋しいが今夜は仕方がない。靴下を履いて寝た。

1/2(日)

兄貴を誘い出して今日も小船越のふたごの湯へ。先にコインランドリーで洗濯をした。兄貴を生協(ぴよ吉に行きたいとのこと)で下ろして店へ。あとで寄るという。塩釜から門小門中同期のAが来てくれた。そこへKと兄貴も。医者をしているAを囲んで、ガタが来ている身体の相談。山小屋医療相談室。30分5000円で10%抜こうかな(笑)。楽しい時間。兄貴に「山小屋はどう?」と訊いたら「いいんじゃない? 落ち着けるよ」と。凡庸な褒め方だが本心だろう。

夜は高校同期バスケがやってきた。いつもこの日にOB会をしている。同期以外にも二人いてこの日も貸切。その二人は早めに帰ったので同期だけで飲んだ。わがバスケ部はエリート集団なので雰囲気になかなか馴染めないが、飲み屋の店主を決め込めば問題なし。飲み放題3000円にして大騒ぎ。楽しい夜だった。石巻の正月、楽しすぎる。

この日バスケが押し寄せる直前、東京からSさんも来ていた。行きつけの狛江スナックで仲良くなった(Sさんは県北の若柳町出身)。若い子がいる店を教えてと言われたのでルーナママに電話して2軒ほど教えてもらった。地図に書いてSさんに渡した。「あとで寄ってくださいよ。一緒におり姫に行きましょう」と誘ったら「楽しかったら来ない」と言われた。12時半まで待ったが来なかったので店を出た。

スナックは今からじゃ無理だなと銀河へ。今年もよろしくお願いします。お通しのほかに蕎麦や餅が振る舞われた。隣のお姉さんは近所のスナックママさん。ちょっとだけしゃべって「今度行ってみます」と。数字だけの名前の店、ずっと気になっていた。気さくなママさんだし行ってみよう。それにしてもあのビル、行きつけの店ばかりになってきたな。

この日はコンビニホテル泊。当日予約で3000円。エアコンで部屋をガーガー温めてぬくぬくと眠った。朝早く石巻を出る兄貴とは会えず。気をつけて帰ってくれな。

1/3(月)

6連戦最終日。まずは石高同期K。そこへ同じくM。この3人で会うことって意外となかったね。でもすごく落ち着く。二人とも次の店に行くロイター板のごとく山小屋を軽々ステップしていった(笑)。

食器を整理してたら見慣れない小皿が。おり姫のお裾分けで返してないやつかなと思い、再度洗って持って行ったら「違うけど好きな色だからもらっとく」と。店は新年会で賑わっていた。ついでにおくずかけ出前受注。残り物なのでただでいいよと持っていった。「そういえば昨日Sさんが来たよ」。え、一人? 店はどうだったとか言ってた? 「うん、ボられたって」。えー、何てこった。あとで謝らないと。

店に戻ってしばらくしたらおり姫ママからLINE。「みんなおくずかけ美味しいって。味噌味はじめてだって」。ナヌー! んなワケねーべ。ちゃんと椎茸で出汁とって醤油で味付けしたんだって。里芋が煮崩れて白濁したから白味噌と勘違い。やめてー。ショックで立ち直れない。おくずかけはそれぞれの家庭で味が違うから店で出すのは難しい。

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23:40。もう来ないだろとエプロン外そうとしたら常連Mちゃん兄弟。その直後にMのマスターとその客。カウンターが一気に埋まった。昨日銀河で会ったママの店に行きたかったが、無理だ。客は1時間ほどで帰ったが、片づけが終われば午前2時。明日も早いのでおとなしくアパートに帰った。水道から水がやっと出た。

この続きはまた。